ジョニィ・デ=ファジオ
ジョニィ・デ=ファジオ(Johnny De Fazio, 1940年11月15日 - 2021年2月26日[1])は、アメリカ合衆国の元プロレスラーである。 人物ペンシルバニア州ピッツバーグ出身。シートン=ラ・サール・カトリック・ハイスクールを卒業した後、製鉄所の工員となる[2]。工員をしながら日本の柔道と空手を嗜む[2]。 1960年代にプロレス界入りし、Wiic TV Channel 11のプロレス中継番組『Studio Wrestling』の主力選手として活躍する[2][3]。その後、ビンス・マクマホン・シニアが旗揚げしたニューヨークのWWWF(ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション)へ参戦。 1965年10月15日、ピッツバーグにてポール・デ=ギャラスが保持するWWWF世界ジュニアヘビー級選手権に挑戦し、奪取を果たす[4]。その後、1972年まで4度の王座奪取を果たした記録が残っている[4]。 またジート・モンゴルとのコンビでWWWFインターナショナルタッグ選手権を獲得している[5]。 1970年代半ば頃にデ=ファジオはプロレス界をフェードアウトの形で去り、製鉄所勤務へ戻る。労働組合の業務に携わるようになり、USW(全米鉄鋼労組)の本部スタッフやペンシルバニア州のUSW局長など労働組合組織の幹部として名を高める[6]。 晩年はペンシルバニア州アレゲニー郡評議員会会長を務めていた[6]。 2021年2月26日に死去した[7]。80歳没。 獲得タイトル
脚注
外部リンク
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