ジョナサン・ケイン
ジョナサン・ケイン(Jonathan Cain、本名:ジョナサン・レナード・フリガ、1950年2月26日 - )は、アメリカのミュージシャン、歌手、ソングライター。ジャーニーのキーボード奏者およびリズム・ギタリストとして最もよく知られている。また、ベイビーズやバッド・イングリッシュとも活動している。ケインは2017年にジャーニーのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たした[2]。また、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックのアーティストとしてソロ活動も行っている。 生い立ちと教育ケインはシカゴでレナードとナンシー・フリガの子として生まれた。8歳の時にアコーディオンのレッスンを始め、10代になる頃にはパーティーやクラブでアコーディオンとピアノを演奏していた。やがてギター、ベース、ハーモニカも演奏するようになった。ケインは1958年に起きたアワー・レディー・オブ・ザ・エンジェルス・スクール火災の生存者で、この火災では生徒92人と修道女3人が亡くなっている[3]。 1968年、ケインはシカゴ郊外のイリノイ州フランクリンパークにあるイースト・レイデン高校を卒業し[1]、後にシカゴ音楽院に入学した。 業績イリノイ州サウスピーキンのゴールデン・ボイスで録音したテープをもとに、ジョニー・リー(Johnny Lee)としてダイアル・レーベルから45回転レコードを2枚リリースした後、無名の独立系レーベル「October」からジョナサン・ケインの名前で45回転レコードをリリースした[4]。1976年、ケインはベアズヴィル・レコードからジョナサン・ケイン・バンド名義でアルバム『ウィンディー・シティー・ブレイクダウン』をリリース。1979年、ベイビーズに加入し、アルバム『ユニオン・ジャック』と『オン・ジ・エッヂ』に参加した。 1980年、ケインはベイビーズを離れ、ロック・バンド、ジャーニーに加入し、キーボード担当であったグレッグ・ローリーの代わりを務めた[5]。ケインはアルバム『エスケイプ』で初めてコラボレーションし、オールミュージックで「ロック界最高のオープニング・キーボード・リフの1つ」と評された[6]「ドント・ストップ・ビリーヴィン」などの曲を作曲し、ピアノを演奏してジャーニーがチャートのトップに躍り出るのを助けた。おそらく彼の最も注目すべき貢献は、バンドでのツアー生活について歌ったジャーニーのバラード「時への誓い (Faithfully)」の単独作詞者となったことであろう。ケインはその後、少なくとも13枚のジャーニーのアルバムやコンピレーションに登場した。 ジミー・バーンズが歌う「ワーキング・クラス・マン」はケインの作品の1つで、バーンズの代表曲とされている。 ケインは、元ベイビーズのバンド仲間であるジョン・ウェイトとリッキー・フィリップス、同じくジャーニーのバンド仲間であるニール・ショーン、そして後にジャーニーのドラマーとなるディーン・カストロノヴォと再び結集し、バッド・イングリッシュを結成。バンドは1990年代初頭に解散するまでに2枚のアルバムをリリースした。 1996年、アルバム『エスケイプ』時のジャーニーのメンバーによって再結成がなされ、アルバム『トライアル・バイ・ファイアー』をレコーディングした。ハワイでのハイキング中に股関節を負傷して手術が必要になり、1998年にスティーヴ・ペリーが再びバンドを脱退。ジャーニーは、1998年から2006年まではスティーヴ・オージェリー、2006年から2007年まではジェフ・スコット・ソート、2007年から現在までアーネル・ピネダという3人のリード・シンガーを擁して活動を続けている。 ケインはジャーニーのコンサートで毎回ピアノ・ソロを演奏することで知られており、通常はバンドが「オープン・アームズ」を演奏する直前に演奏する。彼は1980年に初めてバンドに加入した時からこの伝統を始めた。 ジャーニーでの活動に加え、ケインは8枚のソロ・アルバムをリリースし、ジャーニーのメンバーであるニール・ショーンのソロ・アルバムにも参加している。彼のソロ活動には、2016年以降のクリスチャン・ミュージックへの転向後の作品も含まれている。 ケインは、妻のポーラ・ホワイトが牧師を務めるシティ・オブ・デスティニーで礼拝リーダーを務めている[7]。 2018年5月、ケインは自伝『Don't Stop Believin': The Man, the Band, and the Song That Inspired Generations』を出版し、作家となった[8]。 私生活ケインは3回結婚している。最初の妻は歌手のテイン・マクルーアで、1983年のヒット曲「時への誓い (Faithfully)」を彼女のために書いた。 1989年、2番目の妻エリザベス・イヴェット・フラートンと結婚し、マディソン(1993年)、双子のリザとウェストン(1996年)の3人の子供がいる[1]。2人は2014年末に離婚した。マディソンはスティーヴ・ルカサーの息子トレヴァー・ルカサーと結婚している[9]。 2015年4月、牧師のポーラ・ホワイトと結婚した[10]。2人にとって3度目の結婚。2人はフロリダ州アポプカに住んでいる。 ジョナサンにはトーマスとハロルドという2人の弟がいる[1]。 ケインとデヴィッド・カルムスキーはテネシー州ナッシュビルのレコーディング・スタジオ、アディクション・サウンドを設計・建設した。 ケインは敬虔なクリスチャンで、それがクリスチャン・ミュージックの創作と発信の仕事に反映されていると考えている[11]。 2022年11月、ケインはドナルド・トランプの邸宅マー・ア・ラゴでのパーティーで、自身が共同作曲した「ドント・ストップ・ビリーヴィン」を披露した。ジャーニーのバンドメイト、ニール・ショーンの弁護士はケインに手紙を送り、政治的なイベントで演奏することで「ジャーニー・ブランド」を傷つけたと非難し、そのようなイベントでジャーニーを代表するのを控えるよう求めた[12]。 ディスコグラフィリーダー・アルバム
シングル
受賞歴彼は、スティーヴ・ペリーと共作した「オープン・アームズ」と「クライング・ナウ (Who's Crying Now)」で、2つのBMIソングライター賞を受賞した。ペリーとショーンと共作したジャーニーの曲「ラヴ・ア・ウーマン (When You Love a Woman)」は、1997年のグラミー賞にノミネートされた。 脚注
出典
外部リンク |
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