ジャライル朝
ジャライル朝(ペルシア語 : جلايريان Jalāyīrīyān, 1336年 - 1432年)は、イルハン朝の解体後にイラン西部からイラクにかけての旧イルハン朝西部地域一帯を支配したモンゴル系のイスラーム王朝。ジャラーイル朝、ジャラーイール朝とも呼ばれる。 王朝の名は、モンゴル帝国を構成した有力部族のひとつジャライル部から王家が出たことに由来している。 歴史イランにおけるジャライル部は、その先祖イルゲイ・ノヤンのとき、フレグの西征に従って西アジアの各地を転戦し、戦功によって代々イルハン朝に最上位の重臣として仕える有力部族集団となった。イルハン朝のフレグ家最後の君主アブー・サイード・ハンのとき、アブー・サイードの祖父アルグンを外祖父とし、ハンとは従兄弟の関係にあたるジャライル部当主シャイフ・ハサン(大ハサン)が宮廷の有力者として台頭し、権勢をふるった。だが、アブー・サイードが力尽くでシャイフ・ハサンの妻を奪って自分の妃にした事から、両者の間に確執が生じた。 1335年にアブー・サイード・ハンが没し、フレグ家の血統が絶えると、それぞれにチンギス・ハーンの血を引く傍系の王族を擁立した有力者同士の抗争が激化するが、中でもイルハン朝の中心地であるアゼルバイジャン・タブリーズ地方の草原地帯を巡ってジャライル部の大ハサンと、スルドス部[1]の指導者で同名のシャイフ・ハサン(小ハサン)の間で熾烈な抗争が起こった。 しかし、1338年に行われたジャライル部とスルドス部の直接衝突は新興勢力であるスルドス部の小ハサンの勝利に終わり、ジャライル部の大ハサンはアゼルバイジャンを追われてバグダードを中心とするメソポタミア平原に撤退し、1340年にイラクを中心に自立してアゼルバイジャンのチョバン朝(旧スルドス部)に対抗した。 やがて1357年に、100年来アゼルバイジャン草原の領有権を巡ってイルハン朝と対立関係にあったジョチ・ウルスがアゼルバイジャンに南下し、チョバン朝(旧スルドス部)を破ってアゼルバイジャンを占拠した。大ハサンの後を継いでいた子のシャイフ・ウヴァイスは、これを好機としてアゼルバイジャンに進出、タブリーズを奪還し、イラン西部を制覇して旧イルハン朝の西半を覆うジャライル朝の最大版図を実現した。 自身が優れた文化人であったウヴァイスの宮廷には詩人や音楽家、美術家が集まり、モンゴル帝国時代の東西交流に刺激されてイルハン朝のもとで発展していたイラン・イスラム文化が継承され、その深化が見られた。その一方で、国制は基本的にイルハン朝からモンゴル式のものを受け継ぎ、モンゴル帝国の後裔である遊牧民たちを基幹軍隊とし、遊牧民の慣習法を取り入れた政治が行われた。 しかし、シャイフ・ウヴァイスが1374年に死んだ後には、ジャライル朝は遊牧国家の宿弊である王族内の君主の座を巡る争いが起こり、1382年にウヴァイスの長男のフサイン1世が弟のアフマドによって殺害されるまで内紛が続いた。 さらに、同じ時期には中央アジアにおいてモンゴル系遊牧勢力を統合したティムールがイランへと進出してきていた。アフマドは、東部アナトリアを支配するトルコ系の遊牧部族連合黒羊朝と結んでティムールに対抗したが、圧迫されてタブリーズからバグダードに退却し、さらにティムールに敗れてバグダードを奪われた。フレグによる征服による荒廃から立ち直りつつあったバグダードは、このとき再び大規模な破壊を受けることとなる。アフマドはバグダードから逃れてオスマン朝、次いでマムルーク朝のもとに亡命した。 ティムールの没後、アフマドはイラクに戻って旧勢力を回復し、タブリーズの奪回につとめたが、英主・カラ・ユースフのもと勢力を急速に拡大していた黒羊朝との戦いに敗れ、捕らえられて処刑された。これにより事実上、ジャライル朝は滅亡した。 アフマドの死後も、ジャライル朝の一族はアゼルバイジャン方面で活動を続けたが、王族間の継承争いをはじめ、15世紀を通じてこの地方を争奪した黒羊朝やティムール朝、白羊朝の間で埋没していった。 歴代君主
系図
脚注
参考文献
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