アルグン
アルグン(ارغون خان Arγun, Arghun, 1258年? - 1291年3月10日[1])は、イルハン朝の第4代君主(ハン、在位:1284年8月11日 - 1291年3月10日)。 第2代君主・アバカの長男。アバカの側室の一人カイミシュ・ハトゥン(エゲチ)の息子。第5代君主・ゲイハトゥの異母兄で、第7代君主・ガザン・ハン、第8代君主・オルジェイトゥの父。『元史』の漢字表記では阿魯渾大王、『集史』などのペルシア語表記では ارغون خان Arghāūn khān と書かれる。 生涯継承争い父・アバカ没後のクリルタイで、後継を巡って叔父であるテグデル(フレグの7男)、モンケ・テムル(フレグの11男。フレグとアバカの正妃オルジェイ・ハトゥンの息子)らを推すグループと対立した。モンケ・テムルがアバカの死から25日後の1282年4月26日にモースルで急死すると[2]、テグデルの母クトイ・ハトゥンとモンケ・テムルの母オルジェイ・ハトゥンの両名は、アバカ一統が推すアルグンを後援した。しかし、他のフレグ家の王族たちや部将たちの多くがテグデルを推し、また、「ヤサ」の規定に従い君主位の継承は宗族の年長者によるべきであるという意見もはなはだ根強かった[3]。このため、モンケ・テムルの死の10日後にあたる1282年5月6日にクリルタイの全会一致をもってテグデルが即位することとなった。 しかし、テグデル推戴後もアルグンは弟のゲイハトゥや従兄弟のバイドゥらとともにたびたび叛乱を起こし、一度ならずテグデル側に捕縛されたが、ついには逆にテグデルを捕らえた。この争乱の最中にアルグンを擁護していた叔父のコンクルタイ(フレグの9男)をテグデルが処刑し、これを恨んだ生母アジャジュ・エゲチらコンクルタイ家の人々が復讐としてテグデルを処刑するよう迫り、結局テグデルは1284年8月10日に処刑された。 アルグンは一時離反した叔父のフラチュ(フレグの12男)と和解すると、ゲイハトゥらの推戴を受けて、マラーガ近傍のハシュトルード川とクルバーン・シラとの間にあったカムシウンという夏営地においてクリルタイを開催し、1284年8月11日に即位した[4]。 1286年2月24日(諸説あり)、モンゴル皇帝(カアン)クビライから勅書を奉じた使者が来訪し、アルグンにハンの称号を与え、アルグンの君主位継承が追認された[5]。 晩年晩年は病を得て、1291年3月10日に現在のアゼルバイジャン共和国のあるアッラーン地方で冬営中に34歳で病没した。 その後、彼の遺骸はイラン中部ザンジャーンとアブハルの中間にあったモンゴル語で「クンクル・ウラン」と呼ばれたシャルーヤーズ草原の南部、スィジャース山に埋葬された。このクンクル・ウランに後年オルジェイトゥは自らの廟墓(オルジェイトゥ廟)を含むソルターニーイェを建設している。 ヨーロッパへの使節派遣アルグンの治世にはマムルーク朝対策のため、ヨーロッパの勢力に使者を交していたことが知られている。主にローマ教皇庁とフランス王国へのものが有名である。1288年、ネストリウス派の「カタイとオング諸都市の首都大主教」バール・サウマらがローマへ派遣され、教皇ニコラウス4世に謁見して国書を手渡した。ニコラウス4世はこれを大いに歓迎してキリスト教徒の君主であるアルグンを称讃し、返書では「聖地エルサレムをキリスト教徒側に奪還してエルサレム王国の解放は遠からず容易に達成するであろう」とアルグンのエルサレム入城を進言している。またエラダク、トクダンのふたりのモンゴル王妃がカトリックに改宗したと聞き、両妃にも別途に書簡を送って言祝いだと伝えられる(前者はエラダクはアルグンと妃ウルク・ハトゥンとの娘オルジェイ・ハトゥンあたりかと考えられ、後者のトクダンは弟ゲイハトゥの母后トクダン・ハトゥンと考えられる)。 また1289年にはアルグンの側近でジェノヴァ人ブスカレッロ・ド・ジスルフがローマにたどり着き、先に教皇からの返書に同意して聖地エルサレムの攻略案を了承する旨アルグンからの声明を伝え、さらにイングランド国王エドワード1世とフランス国王フィリップ4世にも同様にシリア・パレスティナ遠征の提案を了承する書簡をラテン語による注釈付きで届けたと言う。1291年1月にはこれらの書簡がフランス、イングランドに届き、8月には教皇ニコラウスはエドワード1世宛の親書でアルグンが自らの愛子にニコラウスという洗礼名を与えたことを引いて、アルグンからの書簡の紹介と十字軍への参加を要請している。しかし、この周到に錬られたシリア遠征計画も、フランスに達した2ヶ月後には、当のアルグンが病没してしまい事実上頓挫した。アルグンがこれらヨーロッパの教皇と君主たちへ発した勅書の内、ニコラウス4世とフィリップ4世宛の、朱印入りのウイグル文字モンゴル語国書がそれぞれバチカン図書館とフランス国立図書館に現在でも伝存している。 宗室『集史』「アルグン・ハン紀」によると、アルグンには男子は4人、女子も4人いたという。 父母
兄弟・姉妹后妃
側室
子女男子女子
脚注注釈
出典
参考文献関連項目外部リンク
|