ジェイソン・グリーリ
ジェイソン・マイケル・グリーリ(Jason Michael Grilli , 1976年11月11日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州オークランド郡ロイヤルオーク出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 「グリリ」や「グリリー」とも表記されることもある。 父親のスティーブ・グリーリもデトロイト・タイガースなどに所属した元メジャーリーガーである。この父親の愛称はグリーリ・チーズでタイガース時代のチームメイトだったジーン・ラモントが名付け、ジェイソンが2005年にタイガースに入団した際にラモントがコーチをしており、ジェイソンに同愛称を継承した[2]。 代理人は、元メジャーリーガーのゲイリー・シェフィールド。 経歴プロ入り前1994年のMLBドラフト24巡目(全体675位)でニューヨーク・ヤンキースから指名を受けたが、契約せずにシートン・ホール大学へ進学。 プロ入りとジャイアンツ傘下時代1997年のMLBドラフト1巡目(全体4位)でサンフランシスコ・ジャイアンツから指名され、7月25日に契約。 1998年は傘下のAA級シュリーブポート・キャプテンズとAAA級フレズノ・グリズリーズでプレー。AAA級フレズノでは8試合に登板し、2勝3敗・防御率5.14だった。 1999年はAAA級フレズノで19試合に登板し、7勝5敗・防御率5.54だった。 マーリンズ時代1999年7月24日にリバン・ヘルナンデスとのトレードで、ネイト・バンプと共にフロリダ・マーリンズへ移籍。移籍後は傘下のAAA級カルガリー・キャノンズで8試合に登板し、1勝5敗・防御率7.68だった。 2000年はAAA級カルガリーで開幕を迎え、5月11日のアトランタ・ブレーブス戦で先発起用されメジャーデビュー。6.2回を投げ、11安打4失点2四球でメジャー初勝利を挙げた。5月12日にAAA級カルガリーへ降格。AAA級カルガリーでは8試合に登板し、1勝4敗・防御率7.19だった。この年は右肘の故障で上記の1試合の登板にとどまり、1勝0敗・防御率5.40だった。 2001年3月6日にAAA級カルガリーへ配属され、開幕を迎えた。右肘の故障でマイナーリーグでの生活が続き、AAA級カルガリー、AA級ポートランド・シードッグス、A+級ブレバード・カウンティ・マナティーズでプレー。AAA級カルガリーでは8試合に登板し、1勝2敗・防御率4.02だった。9月3日にメジャーへ昇格。この年は6試合に登板し、2勝2敗・防御率6.08だった。オフにトミー・ジョン手術を行った。 2002年3月23日にAAA級カルガリーへ異動。この年は前年の手術の影響でメジャーへ昇格することができず、AAA級カルガリーで1試合に登板し、0勝1敗・防御率1.59だった。 2003年はA+級ジュピター・ハンマーヘッズとAAA級アルバカーキ・アイソトープスでプレー。AAA級アルバカーキでは12試合に登板し、6勝2敗・防御率3.38だった。 ホワイトソックス時代2003年12月に行われたルール・ファイブ・ドラフトで、シカゴ・ホワイトソックスから指名され移籍した[3]。 2004年3月3日にホワイトソックスと1年契約に合意[4]。開幕ロースター入りしたが、登板のないまま4月1日に傘下のAAA級シャーロット・ナイツへ降格した[5]。AAA級シャーロットでは25試合の登板で、9勝9敗・防御率4.83だった。8月27日にメジャーへ昇格。昇格後は8試合に登板し、2勝3敗・防御率7.40だった。 タイガース時代2005年2月9日にデトロイト・タイガースとマイナー契約を結んだ[7]。開幕後は傘下のAAA級トレド・マッドヘンズで28試合に登板し、12勝9敗・防御率4.09だった。9月16日にタイガースとメジャー契約を結んだ[8]。この年は3試合に登板し、1勝1敗・防御率3.38だった。 2006年開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のイタリア代表に選出された[9]。3月1日にタイガースと1年契約に合意[10]。 シーズンでは同年からリリーフへ転向し、51試合に登板。2勝3敗・防御率4.21だった。 2007年3月2日にタイガースと1年契約に合意[11]。この年もリリーフとして活躍し、57試合に登板。5勝3敗・防御率4.74だった。 2008年は開幕から9試合に登板し、0勝1敗・防御率3.29だった。 ロッキーズ時代2008年4月30日にザック・シモンズとのトレードで、コロラド・ロッキーズへ移籍した[12]。移籍後は51試合に登板し、3勝2敗1セーブ・防御率2.93だった。 2009年1月20日にロッキーズと1年契約に合意[13]。前回大会に続いて第2回WBCのイタリア代表に選出され[14]、2大会連続2度目の選出となった。 シーズン開幕後は22試合に登板したが、0勝1敗1セーブ・防御率6.05と落ち込み、6月5日にDFAとなった[15]。 レンジャーズ時代2009年6月9日に金銭トレードで、テキサス・レンジャーズへ移籍した[16]。移籍後は30試合に登板し、2勝2敗、防御率4.78だった。オフの10月21日に40人枠を外れ、傘下のAAA級オクラホマシティ・レッドホークスへ降格し[17]、10月22日にFAとなった。 インディアンス傘下時代2009年12月2日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結んだ[18]。 2010年は招待選手として参加したスプリングトレーニングで膝を故障し、マイナーでの登板もなかった。オフの11月6日にFAとなった。 フィリーズ傘下時代2011年1月31日にフィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約を結んだ[19]。開幕後は傘下のAAA級リーハイバレー・アイアンピッグスで28試合に登板し、4勝1敗3セーブ・防御率1.93と好投していたが、7月20日に放出された。 パイレーツ時代2011年7月21日にピッツバーグ・パイレーツと契約を結んだ[20]。契約後は2年ぶりにメジャーへ復帰し、28試合に登板。2勝1敗1セーブ・防御率2.48だった。オフの12月12日にパイレーツと110万ドルの1年契約に合意した[21][22]。 2012年は64試合に登板し、1勝6敗2セーブ・防御率2.91だった。オフの10月29日にFAとなったが、12月12日にパイレーツと総額675万ドルの2年契約[23]で再契約した[24][25]。 2013年開幕前の3月に開催された第3回WBCのイタリア代表に選出され[26]、3大会連続3度目の選出となった。 シーズン開幕後は前半戦43試合で、0勝1敗29セーブ、防御率1.99と活躍し、7月にオールスターに初選出された。しかし、オールスター直後の7月23日に右肘の故障で15日間の故障者リスト入りした[27]。その後、9月3日に復帰。この年は54試合に登板し、0勝2敗33セーブ・防御率2.70だった。 2014年は開幕後8試合に登板していたが、4月26日に15日間の故障者リスト入りした[28]。その後、5月23日に復帰[29]。パイレーツでは22試合に登板し、0勝2敗11セーブ・防御率4.87だった。 エンゼルス時代2014年6月27日にエルネスト・フリエリとのトレードで、ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムへ移籍した[30]。移籍後は40試合に登板し、1勝3敗1セーブ・防御率3.48だった。オフの10月30日にFAとなった。 ブレーブス時代2015年1月7日にブレーブスと総額800万ドルの2年契約+出来高[31](2017年・300万ドルの球団オプション付き[32])を結んだ[33][34]。7月11日のロッキーズ戦の9回裏の守備で一塁をカバーしようとした際に左アキレス腱を断裂し、シーズン中の復帰は絶望となった[35]。故障離脱するまではクローザーとして36試合に登板し、3勝4敗24セーブ・防御率2.94・332⁄3投球回で45奪三振(奪三振率12.0)という見事な成績を残し、職責を果たしていた。 2016年も、21試合・17投球回で23奪三振を記録していたが、一方で四球を与えるペースも早く与四球率は6.9で防御率は5.29だった。 ブルージェイズ時代2016年5月31日にショーン・ラトクリフとのトレードで、トロント・ブルージェイズへ移籍した[36]。移籍後は46試合にリリーフ登板し、ブレーブス時代よりは投球内容が安定。防御率3.64・6勝4敗2セーブをマークした。ブレーブスとの合算では、67試合の登板で防御率4.12・7勝6敗4セーブ・WHIP1.29・59投球回で81奪三振(奪三振率12.4)という成績だった。1シーズンとしての登板試合数は自己最多であった。 2017年は4月3日のオリオールズ戦で史上295人目となる通算550試合登板を達成した[37]が、26試合で2勝4敗・防御率6.97と不振で6月27日にDFAとなった[38]。 レンジャーズ復帰2017年7月2日にエドゥアルド・ピントと金銭の交換トレードで、レンジャーズへ移籍した[39][40]。移籍後は20試合に登板したが、0勝1敗・防御率5.59と投球内容は上向かなかった。オフの11月2日にフリーエージェント(FA)となった[41]。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録
背番号
代表歴脚注
関連項目外部リンク
|