シリアの国旗
シリアの国旗(デ・ファクト)は、2011年から2024年にかけてシリア内戦で旧反体制派が使用していた「革命旗」のデザインを踏襲したもので、1932年に制定されたシリア第一共和国時代の「独立旗」(independence flag)のデザインが元となっている。2024年のアサド政権崩壊後に発足した暫定政権によって、事実上、シリアの国旗として扱われており、トルコ、ロシア、日本等各国に設置されたシリア大使館においても旧政権のものに代わって掲揚されている[1][2][3][4]。 なお、それまでのアサド政権(バアス党政権)時代の国旗は、1980年に制定されたもので、1958年から1961年にかけてのアラブ連合共和国時代のデザインを踏襲したものであった。 シリア国旗の変遷最初のシリア国旗は、ハーシム家が建てたシリア王国時代の1920年にデザインされた。これは現在のヨルダンの国旗に似ているが緑色と白色の順序が逆で、第一次世界大戦中にハーシム家が率いたアラブ反乱の旗をもとに七つの突起がある白い星を加えたものであり、アラブ世界で最初に汎アラブ色を取り入れた国旗だった。しかし、シリアはフランスの委任統治となったため、フランス軍がシリアへ侵攻。ハーシム家は敗れ、王家にはイギリスの手によってイラク王国の国王に据えられた。フランス委任統治領シリアは王国の旗に替え、青地に白の三日月、左隅(カントン)にフランスの国旗を配した旗を制定した。さらに一か月後、緑・白・緑の水平三色旗に、左隅にフランス国旗を配した旗に変えられた。この旗は1925年から1932年まで使用された。同時期シリアはアラウィー派国やドゥルーズ派国などにも分割されており、それぞれ左隅にフランス国旗を配した旗を制定した。 この旗は1932年に、上から緑・白・黒の三色の帯があり、白帯のところに3つの赤い星(五芒星)があるデザインに変えられ、次いでフランス・シリア条約が制定されシリアは部分的な独立を得た。緑はイスラム帝国初期の正統カリフの時代を、白はウマイヤ朝を、黒はアッバース朝を表していた。3つの赤い五芒星は当初は委任統治領シリアのアレッポ地区、ダマスカス地区、デリゾール地区を指していたが、1936年にアラウィー派国とドゥルーズ派国がシリアに合流すると、3つの星はシリアの主要部、アラウィ―派地域、ドゥルーズ派地域を表すということになった。1944年の独立時もこの旗であった。 1958年にシリアとエジプトがアラブ連合共和国を結成した時に、赤・白・黒で緑の星が2つある現在と同じデザインのものが使われた(2つの星はエジプトとシリアを意味する)。1961年にアラブ連合共和国を離脱した際に、古いデザインに戻ったが、1963年にバアス党のクーデターでまた赤・白・黒の水平三色旗に戻った。この時には星は3つとなった(同時期にバアス党が政権を奪取したイラクの国旗と同様のデザインであり、当初はイラク・シリア・エジプトによる汎アラブ国家建設の構想もあったとされるが、実現しなかった)。 1971年、リビアのカダフィ大佐主導で、シリア・エジプト・リビアの汎アラブ主義国がアラブ共和国連邦を結成し国旗を統合した。この連邦は、赤・白・黒の水平三色旗の中央にアラビア語で「アラブ共和国連邦」と書かれた巻物を持つ金の鷹の旗を国旗に制定したが、この連邦は政治統合を見ないまま1977年に解消した。 1980年から現在のデザインが使われるようになった。この旗はアラブ連合共和国当時と同じデザインで、赤色もアラブ共和国連邦当時の赤色からアラブ連合当時のやや明るい赤色に戻された。 2011年から始まったシリア内戦では、バッシャール・アル=アサド率いるバアス党政権に反対する勢力が、アサド政権とバアス党の正当性を否定するため、バアス党の政権掌握以前に制定された1932年以来の国旗を「シリア革命旗」として使用している。 汎アラブ色国旗に使われている色は伝統的な汎アラブ色であり、イエメン、エジプト、スーダン、イラクとも共通する。緑は正統カリフまたはファーティマ朝を、白はウマイヤ朝を、黒はアッバース朝を、赤は殉教者を表すとされるが、赤はヒジャーズのハーシム家を表すという見方もある。 脚注
関連項目 |