ショブチョード・テムチルト
ショブチョード・テムチルト(モンゴル語:ᠱᠢᠪᠴᠢᠭᠤᠳ 来歴1970年代半ばに、中国政府に対して内モンゴル人民革命党粛清事件の責任者である滕海清らの処罰を求める活動に参加する。フフホト市第2高等学校を卒業[1]後、1978年、内モンゴル師範大学史学部に入学[1]する。 在学中の1981年、「中共中央28号文件」の存在が明らかになり、当時の中国政府が内モンゴル自治区に数百万人単位の漢族を移住させることを企図していたことが明らかになると、この計画を撤回させるために南モンゴル学生運動のリーダーとして活躍する。 1981年の学生運動以降、中国政府の厳しい監視下に置かれ、1982年に大学を卒業[1]するが、当局による度重なる嫌がらせのために職を転々とする。1987年に内モンゴル維護人権同盟を設立。1990年、フフホト市でモンゴル書籍の専門書店を開いた[1]。 1991年以降、中国政府による内モンゴル自治区のモンゴル族に対する締め付けが厳しさを増し、モンゴル族の人権や文化を保護する活動をしていたテムチルトは、彼の盟友であるフチントゥグスら大勢のモンゴル族と共に逮捕される。その後、ほどなく仲間を連れてモンゴル人民共和国に亡命[1]。1993年に政治難民としてドイツに移住[1]する。 亡命後の活動
内モンゴル人民党主席として1997年3月20日、米国ニュージャージー州プリンストンにおいて秘密会議が開かれ、米国、ドイツ、モンゴルおよび中国の内モンゴル自治区から、バハ、アルタンバト、オヨンビリグら50数名が集まる。この会議において内モンゴル人民革命党の理念を継承するとして内モンゴル人民党が正式に発足し、テムチルトが主席に選出された。 また、米国、英国、ドイツ、モンゴル国、ブリヤート共和国への支部の設置が決まり、会議後に内モンゴル人民党章程と「内モンゴル人民同胞に告ぐ書」が発表された。 1998年2月、ドイツ、英国、フランス、デンマークなどの代表が参加してライン川の河畔で開かれた国際会議に参加し、自ら情報収集して編纂した「内モンゴルの人権報告書」をジュネーヴの国際連合人権理事会に提出した。 2006年に来日。2月26日に党大会が開催され、非暴力的方法による南モンゴルの独立を目指すこと、適当な時機に南モンゴル臨時政府を樹立すること、内モンゴル人民党の本部をアメリカから日本に移転することを内容とする東京宣言が採択された。 2008年5月16日から開催されたUNPO第9回大会には、内モンゴル代表として出席した。 2015年に党役員会において主席を解任された。 南モンゴルクリルタイ会長として2016年に南モンゴルクリルタイ(世界南モンゴル会議)を結成して自ら会長に就任した。 脚注
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