シジマール・アントニオ・マルチンス
シジマール・アントニオ・マルチンス(Sidmar Antônio Martins、1962年6月13日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手・サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー。 1993年に日本に渡り、Jリーグを代表するGKとして活躍した。現役引退後はサッカー指導者として活動している。 来歴選手時代サンパウロ州サン・ジョゼー・ド・リオ・プレトで生まれ[2]、幼少時から好んでゴールキーパーとしてプレーする[2]。14歳のときにサンパウロFCのテストに合格し[2]、17歳のときにグアラニFCとプロ契約[2]。U-20ブラジル代表に選出され1981年の南米ユース選手権に準優勝、1983年のトゥーロン国際大会に優勝した[3]。キンゼ・デ・ピラシカーバへ移籍後、1988年はECバイーアへと貸し出され、同年のブラジル全国選手権に優勝した[4][2]。その後はポルトゥゲーザ、再びキンゼ・デ・ピラシカーバと移籍した[4]。 ポルトゥゲーザ時代に監督だったエメルソン・レオンから直接連絡を受け[2]、ゴールキーパーコーチとして来日したが、現役に復帰[5]。レギュラーとして活躍した。1993年7月[2]に日本の清水エスパルスと契約[2]。2ndステージ第2節でデビューすると、第3節から6試合連続で無失点に抑えた[6]。清水は1stステージに18試合25失点したが、シジマールが加入した2ndステージでは18試合9失点となり、ステージ優勝争いを演じた[2][6]。サッカーマガジンの2ndステージにおいての全選手の採点では、6.65でビスマルクと並んで最高得点を記録した[7]。同シーズンに達成した731分間連続無失点は、長らくJ1の無失点記録だった(2021年にミッチェル・ランゲラックが823分で更新[8]。またJリーグ記録としては、2006年に横浜FCのGK菅野孝憲がJ2で770分を記録[9])。 清水は1994年の1stステージでは優勝争いをするも、2ndステージに監督がレオンからリベリーノに代わり、FWジャウミーニャが加入すると、シジマールは外国人枠の関係上構想から外れ、控えに回っていた真田雅則が再びレギュラーとなった[10]。1994年10月17日に退団記者会見を行い、その5日後の試合後に退団セレモニーが行われた[10]。退団発表から間もなく清水サポーターにより彼の復帰を求める署名運動が起こり、1995年シーズン前にはGKコーチ兼任で復帰した[10]。1995年4月26日の大宮サッカー場における浦和レッドダイヤモンズ対清水エスパルスにおいて、シジマールの行動を過度な挑発であると解釈した浦和サポーターたちが激怒し物を投げ込むなどでスタジアムが混乱した為[11]、事態収拾の為に衆目で土下座する事件が起きた[12]。 日本ではリーグ戦61試合、カップ戦7試合、天皇杯4試合に出場した。 引退後現役引退後は2003年から2006年3月まで静岡県菊川市の国際開洋第一高等学校サッカー部コーチを務めた。その後はプーマサッカークリニックの講師を経て、静岡県西部1部リーグに所属するVOLARE FC(現・浜松シティF.C)の監督に就任するとともに大阪学院大学サッカー部の特別コーチも務めた。2009年からは柏レイソルのGKコーチに就任し高橋真一郎新監督の下で菅野孝憲、南雄太らを指導した。2011年、チームスタッフとして同クラブ、リーグ優勝の場に立ち会う。 2013年、ヴィッセル神戸のゴールキーパーコーチに就任。2014年12月12日、ヴィッセル神戸のゴールキーパーコーチから退任することが発表された。 2015年2月から、浜松開誠館高等学校のGKコーチを務め[13]、翌年の2016年は、タイ・プレミアリーグのタイ・ポートFCのGKコーチを務めた。 2017年からはJ3の藤枝MYFCのGKコーチに就任直後[14]、開幕前にGKの佐藤隼が負傷離脱し、所属GKが2人になったため、負傷や退場などによるGK不在という最悪のケースを防ぐためにGKコーチだったシジマールがサポート役として現役復帰することになり[15]、3月31日にJリーグに選手登録され、実に22年ぶりに選手として復帰することになった[16]。4月16日のJ3・グルージャ盛岡戦で控えGKとしてベンチ入りを果たした後[17]、4月28日に選手登録を抹消[18]。 2018年、藤枝MYFCのヘッドコーチに就任した[19]。その後、再びGKコーチとなり2022年に退団。 2023年、ヴィッセル神戸のGKコーチに約8年ぶりに就任した[20]。2024年12月12日、退任を発表[21]。 人物身長は183cmだが、両腕を広げた際の長さは193cmである。 名前の由来は、兄のシジネイと、出生当時のブラジル代表GKジウマールから名付けられた。 テレビ番組『やべっちFC』に番組専属ゴールキーパーとして度々出演し、宮本恒靖とのフットサル対決や中村俊輔とのフリーキック対決などで活躍を見せている。 2006年に結婚した妻のホザンジェラ・岩瀬・マルチンスは1990年に来日した日系ブラジル人で、浜松を中心に大学、市民講座などでポルトガル語の教師を務めている。シジマール自身も流暢な日本語を話す[22]。 2013年、クラブ100週年を記念してファンとジャーナリストの投票により選定されたキンゼ・デ・ピラシカーバの歴代ベストイレブンに選ばれた[23]。 2013年、Jリーグ20週年を記念してJリーグが実施したJクロニクルベストにて、サポーター投票により川口能活、楢﨑正剛に次ぎ歴代ベストイレブンGK部門の3位となった[24]。 2019年に雑誌Numberのアンケートで、これまでJリーグでプレーした最強の外国人GK部門で第1位に選ばれた[25]。 過去の出演番組
所属クラブ
個人成績
指導歴
出典
関連項目外部リンク
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