サラミス (戦艦)
![]() サラミス (英語: Salamis、ギリシア語: Σαλαμίς) はギリシャ海軍が計画し、船体の建造をドイツ帝国のフルカン社に[注釈 1]、主砲(45口径14インチ砲)をアメリカ合衆国に発注した超弩級戦艦である[2]。艦名は「サラミスの海戦」に因む。要目(計画値)は排水量19,500トン、全長173.7メートル、幅25.0メートル、速力22ノット、40,000馬力、蒸気タービンの三軸推進、14インチ連装砲塔四基(8門)、15.2センチ砲12門、7.6センチ砲12門、魚雷発射管5門[3]。第一次世界大戦勃発直後に進水したが、主砲が届かずに建造中止となる。ドイツ帝国海軍が接収して戦力化を図ったが、未完成に終わった[4]。本艦向けに製造された主砲は、アメリカからイギリスに売却されてモニター艦[5](アバンクロンビー級)に利用された[6]。 計画バルカン半島の秩序は、ベルリン会議およびベルリン条約によって成立したビスマルク体制によって何とか維持されていたが、大ギリシャ主義を掲げるギリシャ王国と、ヨーロッパの病人と呼ばれ衰退しつつあったオスマン帝国の間には領土問題があって紛争が絶えず、さらに汎スラブ主義を掲げて南下政策をとるロシア帝国や欧州列強の思惑が絡んで火薬庫となっていた。ギリシャとオスマン帝国は建艦競争に走り、1910年にギリシャがイタリア王国からピサ級巡洋艦のイェロギオフ・アヴェロフ (Γεώργιος Αβέρωφ) を購入して優位に立った[注釈 2]。これを脅威と感じたオスマン帝国海軍は[8]、ドイツ帝国海軍の前弩級戦艦(ブランデンブルク級戦艦)2隻を購入した[9](トゥルグート・レイス級装甲艦)。 →「ギリシャ海軍の歴史」も参照
1906年12月に竣工したイギリスの戦艦ドレッドノート (HMS Dreadnought) 以降[10]、列強は弩級戦艦や超弩級戦艦を配備する時代になっていた[11]。オスマン帝国海軍はイギリス海軍の将校を受け入れて近代化を図っていた[注釈 3]。 イギリスを頼り、レシャディエ級戦艦を発注する[12][注釈 4]。このレシャディエ(レシャド5世)は34.3cm砲10門を持つ強力な戦艦であった[注釈 5][注釈 6]。 超弩級戦艦複数を保有しようとするオスマン帝国に対し、ギリシャも対抗すべく超弩級戦艦の購入に踏み切ったが[注釈 7]、ブラジルがイギリスに発注して手放した弩級戦艦リオデジャネイロ(45口径12インチ(30.5センチ)連装砲塔七基、計14門)はオスマン帝国に受注されてしまった[注釈 8][注釈 9]。 またアルゼンチンがアメリカ合衆国に発注したリバダビア級戦艦や[19]、チリがイギリスに発注したアルミランテ・ラトーレ級戦艦[20]の中途買収にも失敗している[18]。ギリシャは超弩級戦艦を保有するため、1隻をドイツ帝国に、2隻目をフランスに発注した[注釈 10]。ドイツ帝国に発注したのが本艦で[22]、フランスに発注した超弩級戦艦が[18]、ブルターニュ級戦艦のヴァシレフス・コンスタンチノス (Βασιλεύς Κωνσταντίνος Ι) である。 また戦力を揃えるため、ギリシャはアメリカ海軍のミシシッピ級戦艦(1908年2月竣工、同型艦2隻)を購入し[23]、キルキス級戦艦(キルキス、レムノス)とした[24][注釈 11]。ただしミシシッピ級(キルキス級)は前弩級戦艦でしかなかった[26]。 「サラミス」は「14インチ砲6門搭載で速力23ノット以上、基準排水量15,000トン」を目標として設計され、ドイツ帝国のフルカン社に設計を依頼した[注釈 12]。同社は「13.800トン、35.6cm砲6門、15.2cm砲8門、対12インチ防御、速力23ノット」というまずまずの設計第一案を返した。しかし、この案は海軍当局からの反対とオスマン帝国海軍の更なる増勢が予測された為に火力と防御力が不足であると却下され、更なる強力化を行った第三案が考案された。これは、「35.6cm砲8門、15.4cm砲12門、3ポンド砲8門、20インチ水中魚雷発射管3門」へと変更されており、主砲と副砲の火力がそれぞれ前案の1.5倍になっていた。それに伴い艦形が大型化し、排水量は19,500トン、全長は170mを超え、砲配置を背負い式に換えたために列強の超弩級戦艦と比べても遜色の無い艦となった。 問題は主砲(14インチ砲)であった。当時のドイツ帝国海軍の主力艦(戦艦、巡洋戦艦)は50口径12インチ(30.5センチ)搭載型が多数を占め[28]、最新鋭のバイエルン級戦艦で45口径15インチ(38センチ)砲を採用した段階である[29][注釈 13]。14インチ(35.6センチ)砲をドイツで確保することが出来ず、本艦はアメリカから輸入で対処することとなっていた[30]。前述のようにアメリカはギリシャにミシシッピ級(キルキス級)戦艦を輸出した実績があり、サラミスの建造にも影響を与えたという[30]。 艦形![]() 外観は低く、どっしりとした安定感をかもし出している。船体は平甲板型船体で、垂直に切り立った艦首から新設計の「USA Mark1 35.6cm(45口径)砲」を連装砲塔に収め、1・2番主砲塔を背負い式に2基搭載配置した。司令塔を組み込んだ操舵艦橋航海艦橋両脇には耳のような見張り台(船橋:せんきょう)を全幅一杯に張り出している。操舵艦橋を基部として頂上部に射撃方位盤室を載せた三脚式の前部マスト前向きに立つ。 その背後には2本煙突が立つ。煙突の間隔は離されており、その間は艦載艇置き場となっており、2番煙突の前方に設けられたジブ・クレーン1基により運用された。2番煙突の後ろに後部三脚マストが後向きに立ち、後部甲板上に後向きの3・4番主砲塔が背負い式に2基配置された。副砲の「15.2cm(50口径)速射砲」は船体中央部の舷側ケースメイト配置で単装砲架を等間隔に片舷6基ずつ計12基を配置した。その他に対水雷艇迎撃用に7.6cm単装速射砲を艦橋左右と後檣基部に2門ずつの片舷4基で計8基装備した。51cm水中魚雷発射管は艦首に1門、艦尾に並列で2門の計3門装備した。 兵装主砲本級の主砲にはアメリカ製の「1914年型 35.6cm(45口径)砲」が採用された[5][注釈 14]。45口径14インチ砲の性能は、重量635kgの主砲弾を最大仰角15度で射距離21,030mまで届かせることができる性能で、射距離18,290mで舷側装甲170mmを、射距離10,920mで305mmを貫通できる性能であった。これを新設計の連装砲塔に納めて4基を搭載する予定であった。砲塔の俯仰角能力は仰角15度・俯角5度で旋回は首尾線方向を0度として左右150度の旋回角度を持っていた。発射速度は毎分1.25発であった。 副砲、その他武装等本級の副砲は「Marks 6 1903年型 15.2cm(50口径)速射砲」を採用した。その性能は重量47.7kgの砲弾を最大仰角15度で射距離13,720mまで届かせることができる性能であった。発射速度は毎分6発、ケースメイト式の仰角は15度・俯角10度で動力は人力を必要とした。射界は舷側配置のために100度であった。その他に対水雷艇用に7.5cm速射砲を12基、対艦攻撃用に51m水中魚雷発射管を単装で3基を装備した。 防御防御要領は第一案からさほど進化していない。水平防御は原案よりは若干強化はされているものの、主甲板75mm、舷側防御は250mmと対12インチ防御のままとされた。これは軍艦という買い物で最も値が張るのは「大砲」と「装甲板」と「機関」で、小国海軍で揃えるのにはどれかに眼をつむらなければならなかったという理由がある。 実際の建造![]() フルカン社設計案を元案に1912年7月23日にハンブルク造船所で起工した。 1914年8月に第一次世界大戦が勃発した。同年11月11日に進水する。艦名をティルピッツ (SMS Tirpitz) と改名した。[要出典] 問題は、主砲塔一式がイギリス側で差し押さえられて入手できなかったことだった。ドイツ式の主砲を搭載するためには根本的設計変更と改造が必要になる[30]。艤装は1914年12月31日に中断され、船体は兵舎として活用された。 後日、ユトランド沖海戦でイギリス海軍の大艦隊 (Grand Fleet) とドイツ帝国海軍の大洋艦隊 (Hochseeflotte) が交戦した際、海戦の終盤で偵察部隊(戦闘巡洋艦隊)を掩護していたドイッチュラント級戦艦(前弩級戦艦)ポンメルン (SMS Pommern) が撃沈された[34](ドイツ艦隊、戦闘序列)。 大海戦に参加したイギリス海軍将兵は、沈没したポンメルンを「サラミスではないか」と噂したという[注釈 15]。 なおベスレヘム・スチールが製造した主砲塔4基(14インチ砲8門)はイギリスが買い取り[36]、イギリス海軍がアバクロンビー級モニターの主砲として流用した[30]。同級のラグラン (HMS Raglan) は地中海に配備され、オスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリム (Yavuz Sultan Selim) と軽巡洋艦ミディッリ (Midilli) と交戦し、撃沈された(イムブロス島沖海戦)。 トルコ軍艦2隻の前身は[37]、イギリスに接収された戦艦2隻(レシャディエ/エリン、スルタン1世/エジンコート)の代艦として[38]、オスマン帝国がドイツ帝国より購入した巡洋戦艦ゲーベン (Goeben) と小型巡洋艦ブレスラウ (SMS Breslau) であった[39][12][40]。 第一次世界大戦後、フルカン社は建造代金£45,000の支払いを要求するも、ギリシャ政府が不完全なサラミスの購入を拒否。結局、ギリシャ政府はフルカン社に£30,000を支払って和解した。一方、隣国ではトルコ革命によりオスマン帝国が打倒され、連合国はローザンヌ条約によってアンカラ政府を承認し、トルコ共和国が樹立した[41]。ヤウズは1923年にトルコ共和国に返還され、同海軍は1926年から28年にかけて修理と整備を開始、ヤウズを復帰させた[42]。対抗策としてギリシャは本艦を竣工させることも検討した。しかし完成には到らず、1932年にブレーメンにて船体は解体処分された。 性能
ギリシャとオスマン帝国の建艦競争に関連する艦船
出典注
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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