サトザクラサトザクラ(里桜)は、広義ではバラ科サクラ属のサクラの栽培品種の総称で、狭義ではオオシマザクラを基に誕生した栽培品種の品種群(Cerasus Sato-zakura Group)のこと。2014年に発表された森林総合研究所の215の栽培品種のDNA解析結果により、日本のサクラの栽培品種は、エドヒガンから誕生したシダレザクラのように一つの野生の種 (species)から誕生した存在は稀で、多くがオオシマザクラに、ヤマザクラ、オオヤマザクラ、エドヒガン、カスミザクラ、チョウジザクラ、マメザクラ、カンヒザクラ、などの多様な野生種が交雑して誕生した種間雑種であることが判明した[1]。八重咲きのヤエザクラの栽培品種の多くがオオシマザクラを基に開発された狭義のサトザクラ群である[2]。 なおアメリカの主流の分類法によると、本サトザクラと日本に自生する野生種のカスミザクラとオオヤマザクラとヤマザクラとオオシマザクラが、Prunus serrulataという単一の種にまとめられる場合もある。その場合は、サトザクラがPrunus serrulataの下位分類の変種 (variety)扱いでPrunus serrulata var. lannesiana もしくは Prunus serrulata var. pendulaもしくはPrunus lannesiana、カスミザクラとオオヤマザクラも変種扱いでPrunus serrulata var. sachalinensisとPrunus serrulata var. pubescens、ヤマザクラは変種もしくはさらに下位分類の品種 (form)扱いでPrunus serrulata var. spontanea もしくはPrunus serrulata f. spontanea、オオシマザクラが品種扱いでPrunus serrulata f. albidaという学名になっている[3]。 花見と広義のサトザクラ開発の歴史日本では固有種を含んだ分類学上の10もしくは11種(species)の基本の野生種を基に[4][5][注釈 1]、これらの変種(variety)以下の分類を合わせて100種以上の自生種があり、さらにこれらから育成された栽培品種(cultivar)が少なくとも200種以上あり[6]、分類によっては600種以上、または800種ともいわれる品種が確認されている[7][8][9][10]。なおこのうち100品種余りは北海道松前町由来のマツマエハヤザキなどを掛け合わせるなどしてベニユタカなどの多品種を生み出した浅利政俊が作出したものである[11][12]。 日本では果実(サクランボ)を食用とするほか、花や葉の塩漬けも食品などに利用されるが、特に平安時代の国風文化の影響以降に、桜は観賞用途(花見)で花の代名詞のような特別な位置を占めるようになった。当初は鑑賞の対象とされる代表的な品種は野生に自生するヤマザクラであった。これに加えて、花弁の数や色、花の付け方などの観点から見栄えが良かったり突然変異の珍しい特徴を持つ野生の個体を何世代にもわたって選抜育種し、優れた個体を接ぎ木などの方法で増殖させることで様々な栽培品種が開発されて、花見に利用された。既に平安時代には八重桜が接ぎ木によって増殖されていたらしいことや「しだり櫻」や「糸櫻」などが存在したことが当時の文献に記録されている。また鎌倉時代以降に鎌倉周辺に自生するオオシマザクラが栽培されるようになり、これが京都に持ち込まれたと考えられており、室町時代にオオシマザクラを由来とするフゲンゾウやミクルマガエシ等が生まれた。江戸時代にはオオシマザクラの優れた特質からカンザンなどの多種のサトザクラ群やソメイヨシノ(染井吉野)などが生まれ、河川の整備に伴って、護岸と美観の維持のために柳や桜が積極的に植えられた。江戸時代末期には現代の日本で見られるのと大差のない300を超える多くの品種が存在するようになった[13][14][15][16][17]。 明治時代に入り、大名屋敷の荒廃や文明開化・西洋化のため庭園が取り潰されると同時に、そこに植えられていた数多くの栽培品種の桜が伐採され、植えられるのはソメイヨシノばかりになっていった。これを憂いた駒込の植木・庭園職人の高木孫右衛門は多くの栽培品種の枝を採取し自宅の庭で育てた。これに目を付けた江北地区戸長(後に江北村村長)の清水謙吾が村おこしとして荒川堤に多くの品種による桜並木を作り「五色桜」として評判となり、これを嚆矢として多くの栽培品種が小石川植物園などに保存されることになり、その命脈を保った。また京都では第14代佐野藤右衛門が全国にあった貴重な栽培品種や名木を収集して増殖して保存に務めた[18]。 また第二次世界大戦で荒川堤も壊滅的な被害を受けるが、第二次大戦中は埼玉県川口市安行の植木業者の小清水亀之助らが品種の保護に尽力し、戦後の1950年頃には国立遺伝学研究所が、1960年代には多摩森林科学園が小清水らから苗を譲り受け、現在では前者に250系統350個体、後者に500系統1300個体のサクラが植えられて、江戸時代以前からのサトザクラの命脈を保っている。またイギリスの園芸家コリングウッド・イングラムが保存していたタイハクのように、一度日本で消滅した品種が日本に里帰りすることで、江戸時代以前のサクラの命脈を補完している。戦後の高度経済成長期にはソメイヨシノの植樹が日本全国で爆発的な勢いで進められ、今日ではサクラの中で最も多く植えられた栽培品種となっている[18][19]。 今日でもサクラの栽培品種の作出は続けられており、珍しい方法としては、2007年に理化学研究所が世界で初めてサクラの在来品種に重イオンビームを照射して新品種ニシナザオウ(仁科蔵王)を作出することに成功している[20]。 今日、とりわけ多くの栽培品種のサクラが見られる名所としては、松前公園(250品種)、日本国花苑(200品種)、日本花の会結城農場(350種)、造幣局の桜の通り抜け(134品種)などがあげられる。(品種数は野生種と、野生種の雑種と下位分類を含んだ数) オオシマザクラを基盤とする狭義のサトザクラ群サトザクラ群に属するサクラの一部を列挙する。
脚注・出典注釈出典
|
Portal di Ensiklopedia Dunia