ゴスポダーリゴスポダーリ(ロシア語: господарь、ブルガリア語: господар、セルビア語: gospódar)は、ゼタ公国、モルダヴィア公国(ru)、ワラキア公国(ru)、ノヴゴロド共和国、リトアニア大公国、北東ルーシ(ウラジーミル大公国領域)、モンテネグロにおいて用いられた称号である。 (留意事項):本頁の「ゴスポダーリ」はロシア語: господарьからのカナ転写であり、他の言語に拠れば別の表記となるが、便宜上「ゴスポダーリ」で統一している。 歴史![]() ![]() ゴスポダーリは、元はスラヴ祖語の単語であり、様々なスラヴ系言語で用いられた。すべてのスラヴ系言語において、所有主あるいは所有地を意味した。ゴスポダーリが君主の称号として用いられるようになったのは、ラテン語のドミヌスの翻訳借用として、主、主人の意味が付加されたためとみられる。君主の称号として用いられた最初の例は、ともにラテン語使用地域と接していた、14世紀のゼタ公国、またガリツィア(ポーランド王国領)の外交文書においてである。たとえば、ゼタ公国の君主Иван Црнојевићが、1458年に「ゼタのゴスポダーリ」と署名した史料が残されている。 また、ワラキア公国、モルダヴィア公国では、14世紀始めから、事務的な文章の中に「hospodar」が用いられ始めた。ただしこの時期のワラキアでは、「hospodar」は相手に呼びかける場合にのみ添えられた。一方、モルダヴィアでは称号として用いられた[1]。ワラキアにはセルビアから、モルダヴィアにはガリツィアから伝わったと考えられる[1]。15 - 19世紀になると、モルダヴィア、ワラキアでは共に、統治者が、hospodar、またヴォイヴォダを称号に用いた。また、ルーマニアにおいては、「Domn(ラテン語のドミヌス / dominusより)」と共にゴスポダーリが用いられた。ルーマニア公国が王政を宣言(ルーマニア王国となる)した1881年まで、この称号は用いられた。 モンテネグロでは、モンテネグロ王ニコラ1世が、王(Краљ)の称号とともに、1918年までゴスポダーリの称号を保持していた[2]。 ![]() ロシアにおいては、ノヴゴロドの白樺文書No.247(ru)(11世紀)に用いられている例がある。14世紀にはリトアニア大公でも用いられ、さらに15世紀にはウラジーミル大公国域へと伝わった。その契機はおそらく、モスクワ公ヴァシリー1世と、リトアニア大公ヴィータウタスの娘ソフィヤ(ru)との結婚(1391年1月。当時の暦を用いたトヴェリ年代記では1390年[3])であると考えられる。ゴスポダーリの称号はロシアに定着し、モスクワ公と同じくウラジーミル大公国域の諸公の統一をはかるトヴェリ公、また西接するノヴゴロドでも用いられた[注 3]。なお、15世紀には、所有主・主人の意味を示す単語としては、「xoža / 主人」などのテュルク語からの[5]借用語であるホジャイン(хозяин)が用いられるようになった。しかし、その後、15 - 16世紀の端境期になると、「ゴスダーリ(государь)」という表現が用いられ始める。17世紀始めには、ゴスポダーリという表現は、完全にゴスダーリに取って代わられた[注 4]。 なお、帝政ロシアにおいては、モルダヴィア等のゴスポダーリの子孫(ダビジャ家(ru)、カンタクゼン家(ru)、カンテミール家、マヴロコルダト家。名称はいずれもロシア語転写。)が貴族の家名を保っていたが、いずれも、ゴスポダーリあるいはゴスダーリと称されることはなかった。 王朝各王朝の以下の時期に、ゴスポダーリ系(カタカナ表記は各言語に拠って異なる)の称号を冠した人物がいる。
脚注注釈
出典
参考文献
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