コーブルク
コーブルク(Coburg)は、ドイツ、バイエルン州北部オーバーフランケン行政管区の都市。郡に属さない独立市であると同時に、同名の郡の郡庁所在地でもある。 1918年までこの街は、ザクセン=コーブルク=ゴータ公の宮廷所在地であったが、今日では、地元の保険グループHUK-コーブルクの本拠として知られている。コーブルクの高台にはドイツで2番目に大きな城(砦)であり、「フランケンの王冠」とも呼ばれるフェステ・コーブルク(コーブルク城塞)がそびえる。 地理この街はテューリンゲンの森の南縁、ランゲ山地のマイン川の渓谷に位置し、街をイッツ川が貫いて流れる。市内ハイリッヒクロイツキルヒェにはラウターバッハ川の河口がある。この川は単にラウターと呼ばれ、ノイゼス地区でズルツバッハ川と合流し、コーブルクでロッテンバッハ川に注ぎ、さらにイッツ川に合流する。コーブルク市内のイッツ川の流域面積は約364km²で、1986年に洪水防止の水量調整湖フロシュグルントゼー湖が建設されるまで、この街はたびたび大洪水に見舞われた。特に低い位置にある駅付近は洪水に悩まされていた。コーブルク市内のイッツ川が堤防を越えたのは2003年が最後だが、さらに洪水防止用調整湖ゴルトベルクゼー湖がズルツバッハ川とラウターバッハ川に2010年に建設された。近隣の大きな都市としては、直線距離で80km北にエアフルト、90km南西にヴュルツブルク、90km南にニュルンベルクが位置している。マルクト広場の標高は296m、フェステの標高は451mである。 市の構成コーブルクは、13の地区からなっている。各地区の2011年現在の面積と人口とを表で示す。
人口の2/3がイッツ川流域の市中心部に住んでいる。特に周辺外側に位置するレーゲンやノイ・ウント・ネーアスホフは村の様相が色濃い。 隣接する市町村コーブルク郡に属する以下の市町村がコーブルク市を囲んでいる。北から時計回りに、ラウタータール、デルフレス=エスバッハ、レーデンタール、エーバースドルフ・バイ・コーブルク、グルプ・アム・フォルスト、ニーダーフュルバッハ、ウンタージーマウ、アホルン、ヴァイトラムスドルフ、メーダー。 気候コーブルクの気候は、南のマイン川上流域と北のテューリンゲンの森の中間に位置することで特徴づけられる。さらに峡谷型の地形にも影響されている。夏期は比較的温暖だが、冬は近くのテューリンゲンの森のために冷え込む。年間平均気温は8℃だが、1月の日中平均気温は-1.4℃、7月のそれは17.2℃である。平均で真夏日が5日、夏日が36日、真冬日は28日である。年間の平均降水量は747mmで、どの月もほぼ同じ位の降水量である。最も多いのは6月の82mmと12月の73mmである。1.0mmを越える降水があるのはそれぞれ平均3日であるが、最高では24時間に57.6mmの降水があったこともある。 歴史コーブルクが史料上に現れるのは1056年のポーランド王太后リヘザから大司教アンノ・フォン・ケルンへの贈与証書が初めてである。1331年、コーブルクは都市権と裁判権を皇帝ルートヴィヒ・デア・バイエルンから授けられた。22年後の1353年、マイセンのフリードリヒ3世がマイセン辺境伯を相続し、これと同時に、コーブルクの領主権はヘンネベルク伯ハインリッヒからヴェッティン家に移った。市の紋章は1430年に聖マウリティウスが描かれたものに定められた。 1485年、コーブルクはエルネスティン家のライプツィヒ領に属することになった。その後、宗教改革を支援したザクセン選帝侯は、1524年にはすでに改革派の信仰をコーブルクに紹介した。1530年、マルティン・ルターはコーブルクに半年間滞在している。これは、彼が「追放者」となっており、アウクスブルク帝国議会に参加することができなかったためである。 1586年から1633年の間、コーブルクは自立した独立国家としてのザクセン=コーブルク公国の公爵の居城であり首都に初めてなった。この頃、ヨハン・カジミール公の元でバロック建築が建造された。こうした建物は現在もこの街の風景を作り出している。1680年から1699年のアルブレヒト公の時代に一時的に首都に戻った後、1735年にコーブルクは再び王都となった。今度は、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公の、そして1826年以降はザクセン=コーブルク=ゴータ公の居城であった。 19世紀の初め、エルンスト1世は居城であるエーレンブルク城の改修を行った。宮殿は、新しい劇場、アーケードを備え、庭が拡張され、今日目にする姿となった。 この町の発展については、1858年にヴェラ鉄道と呼ばれる鉄道路線が開通したことは特筆に値する。この鉄道は以後60年の間、縁戚関係にある皇帝、ツァーリ、王族、侯爵たちがコーブルクを訪問する際に利用された。リベラルな思想のエルンスト2世の治世・庇護の下、この街は、1860年頃には、組織的なドイツ国民運動の中心地となっていった。 1918年11月14日、カール・エドゥアルトが公の身分を失い、君主制は幕を閉じた。1919年にドイツで初めて行われた自由な国民投票で、コーブルク自由州とテューリンゲン州の合併に88%以上の反対票が投じられた[2]。これにより、コーブルクはバイエルン州に編入されることになった。 1922年以降、コーブルクは国家社会主義の有力な中心地の一つとなっていった。1929年にはすでに、ドイツの都市で初めてNSDAPが市議会で絶対多数を占め、1932年にはアドルフ・ヒトラーに名誉市民の称号を与えたドイツ最初の都市となった。 この街は第二次世界大戦では、1945年4月11日に比較的損害を被ることなくアメリカ軍に占領された。ここで1919年のバイエルンとの合併という住民投票の決定が思いがけない結果をもたらした。コーブルクはソヴィエトの支配地域となった周辺のテューリンゲン地域から分離され、アメリカの支配地域に属することになったからである。そして1989年まで地域境界、すなわち1949年以降の東西ドイツ国境線はコーブルクに沿って引かれ、コーブルクは国境沿いの町となった。 1950年、Haftpflicht-Unterstützungs-Kasse kraftfahrender Beamter Deutschlands株式会社エアフルト、今日の保険グループHUK-Coburgが、その所在地をコーブルクに移転させてきた。この会社は、4100人以上の従業員を擁するコーブルク最大の雇用者であり、営業税を納入する大企業である。このため、この街の人口あたりの地方税収入は、ドイツで最も高い。 王の居城ではなくなったとはいえ、コーブルクはこの地域にとって、特にバイエルンとの結びつきやドイツの再統合に関して特別な意味合いを持つ街である。この街は上位中心都市(Oberzentrum)であり、公立劇場、州立図書館、医療センターや様々な教育機関といった重要なインフラストラクチャーを備えている。2005年5月30日以降、コーブルクは、Europastadtの肩書きを得た。このタイトルは、欧州評議会から授与されるもので、ヨーロッパの連携に特別な提言や活動を行った都市を示す呼称である。 宗教コーブルクの地域は、フランケン地方やテューリンゲン地方がキリスト教化されて以来(おそらく768年頃)、宗教改革が導入される1524年まで、ヴュルブルク司教区に属した。その後、何世紀もの間、この街ではルター派が支配的であった。1910年には、この地域の住民の96%以上がルター派のコーブルク福音主義教会に属していた。この領邦教会の長は、「教会の首長」として、代々のザクセン=コーブルク公爵が務めた。これは教会支配政策の一つである。宗教上の監督はコーブルクに座を占めた教区監督が行った。コーブルクとバイエルンの合併後、1921年にコーブルク福音主義教会はバイエルン福音ルター派教会に統合された。コーブルク地区は76.129人(2008)の教会員を擁しバイロイト教区に属している。
ローマ・カトリックの地域信者は、18世紀の終わり頃に再びこの街に現れる。1802年にはケッチェンガッセの一室で、1806年からはニコラウス礼拝堂で礼拝を始めた。1860年にはアウグスト・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(当時のザクセン=コーブルク=ゴータ公爵エルンスト2世の従兄弟に当たる)の庇護下、600人のカトリック信者は自分たちの教会として新しい聖アウグスト教会堂を獲得した。 1826年からこの教区はバンベルク大司教区に属することになり、これは1920年最終的に確定した。 これら二つの大教会勢力とは別に、今日では、福音派自由教会信徒(バプテスト教会)、キリスト再臨論派やキリスト教共住団といった自由教会の信者もいる。 さらには、新使徒派の教区、古カトリック派教会、末日聖徒イエス・キリスト教会やエホバの証人も信仰されている。シナゴーグを持つユダヤ教組織も一つ存在している。2006年現在、コーブルクには3つのムスリムの礼拝所が存在している。 市町村合併1934年、ケッチェンドルフ、ヴュシュテーナホルン、コルテンドルフ、およびノイゼスとの合併が行われ、30,000人の人口が必要な駐屯地に再びなった。1970年代にはさかんに市町村合併が行われた。1972年の前半に、リュッツェルブーフ、レーベルシュタイン、レーゲンおよびザイトマンスドルフが、中盤にバイアースドルフ(カレンベルク城で知られる)、クライトリッツおよびショイエルフェルトが合併した。そして1976年にノイ・ウント・ネーアスホフ、1977年にバーテルスドルフ・ウント・グレントが合併し、市町村合併は完成した。市の面積は1900年の11.4km²の4倍以上の48km²となった。 人口推移1480年、この街に2,000人の住人が住んでいた。19世紀に人口が増え、1843年には10,000人に達した。1864年から1875年にかけて街の中心部はさらに発展し、およそ4,000人増加して14,570人となった。これは約37%もの人口増加にあたる。世紀の変わり目にはついに20,460人にまで増加した。第一次世界大戦により約10%の人口減少を見たものの、1927年にはこの街に25,000人の人が住んでいた。最初の市町村合併により1934年の人口は飛躍し、10%増の29,000人となった。人口が最大となったのは1946年で、15,000人の避難民を受け入れたために、人口は50,000人に達した。20世紀の終わりには、人口42,800人で、これ以後42,000人前後でわずかに変化しているが、軽い減少傾向にある。 政治紋章1430年以降、コーブルク市の市章には聖マウリティウスが描かれている。マウリティウスは、紋章学的には、サン=モール修道会の装いで、黒い肌を持つムーア人である。彼はこの街の守護聖人である。1934年からの国家社会主義体制の時代にはムーア人の紋章は剣とハーケンクロイツの紋章に置き換えられていた。 市議会コーブルクの市議会は、大都市市長と自らの市条例で定められた40議席の議員から構成される。大都市市長は直接選挙で選ばれる。議員の任期は6年間である。2014年3月16日の地方選挙の結果に基づく議席配分は以下のとおりである[4]。
市長歴代市長(1. Bürgermeister)は、以下の通り。1900年以降は上級市長(Oberbürgermeister)。
姉妹都市西ヨーロッパおよび北アメリカに6つの姉妹都市を持つ。
文化と見所劇場と映画コーブルク公立劇場 (Landestheaters Coburg、バイエルン州とコーブルク市が共同で管理・経営している)の建物は、1840年代の公爵エルンスト2世の宮廷劇場の建物である。ほぼ同じ建物がゴーターにも同時に建設されたが、第二次世界大戦で破壊されてしまった。公立劇場は、今日ではコーブルクの最も美しい建造物の一つであり、シュロス広場の全体的な景観に調和した建物となっている。多くの部分からなるこの擬古典様式の建造物は、鏡の間や美しいオウディトリウムなども備えている。バイエルン州の共同出資(40%)によりバイエルン州第3の公立劇場となった。小さなドライ=シュパルテン劇場(オペラ/オペレッタ、演劇、バレエ)や550席のグローセン・ハウス、99席のライトハレがある。 この街には1920年から1975年に最大6つの映画館があった。現在では、この地域で最も近代的な9面のスクリーンを持つキノ・ウトポリス(Kino Utopolis)のみになった。ここにはバーやレストラン、ミュージック・クラブもあり、人気の施設である。この施設は、1919年に開業のウニオン・テアターがあった場所に、2001年に開業した。かつては600席の座席数をもつユーゲントシュティール様式の映画館であった。映画センターの新しい建築に課された条件の一つが、屋外の大階段を遺すことであった。 地方メディアコーブルクはそれほど大きな街ではないにもかかわらず、2つの日刊紙がある。1886年に北バイエルン日刊新聞グループの地方紙として創刊された「コーブルガー・ターゲブラット」(Coburger Tageblatt)と1946年に創刊された「ノイエ・プレッセ」(Neue Presse)である。1986年以降は、メディア・グループ南ドイツ出版(Süddeutscher Verlag)が大部分を占めている。ラジオ放送局は、ラジオ1とラジオ・ギャラクシー・コーブルクの2局であるが、後者は若者情報を提供するラジオ・ギャラクシー・バイエルンの支局である。ホーフにあるTVオーバーフランケンはオーバーフランケン地方を対象とした地方テレビ放送局である。さらに詳細な情報についてはインターネットのネットマガジン「Cocoa」がある。ここではコーブルク周辺地方の毎日のイヴェント情報や、その背景情報を知ることができる。 建築物コーブルクは、ユーデン門、ケッチェン門、シュピタール門といった城門を持つ市壁の遺る、大変に保存状態の良い旧市街を持つ。この街には、見る価値のある建築や泉、歴史的な場所などが豊富にある。
公園シュロス広場と城山の間にあるホーフガルテン(Hofgarten、王宮庭園) は、1680年にアルブレヒト公爵が造成させた5.5haの広大なバロック庭園に起源を持つ。現在の、地元のあるいは国外の珍しい木々を多数持つイギリス庭園となったのは、1857年に公爵エルンスト2世によってフェステ・コーブルクまで拡張されたときである。今日では街の中心に位置することから、市民の憩いの場として活用され、また同時に新鮮な空気を供給する森として機能している。この公園には、1899年のエルンスト2世の騎馬像、フランツ公爵とその妻の墓所(1816年/1817年)、アルフレート公爵の泉(1904年)、コーブルガー・コンヴェント(恒例行事の項参照)の記念碑(1926年)がある。 東の濠が埋め立てられ、緑地帯となった結果、ホーフガルテンとローゼンガルテンとが会議場のあたりで結ばれた。ローゼンガルテンはかつては街の外で、農夫の牧草地であった。1929年にこの場所で、ドイツ・バラ展が開催され、20万人近くの見物客が訪れた。この庭園は、80年代に手が加えられ、約70種のバラと、エキゾチックな鳥たちが住む大型のケージが備えられた。さらに、コーブルクの芸術家フェルディナント・レプケ作のジンフルトの泉が設置された。 このほかの小さな公園としては、ノイゼス地区のリュッケルト公園、ビュルクラス小城に隣接するヨシアス公園やイッツ川沿いの遊歩道などがある。 博物館
水族館コーブルクのノイゼス地区には私営の「シー・スター水族館」がある。650m²の展示スペース、55の水槽で見学者は650種以上の魚、とりわけ17種のサメを見学することができる。 スポーツサッカーは16チームあり、中でもDVVコーブルクは2006年まで州リーグで戦っていた。コーブルクではサッカーと並んで伝統的な射撃が重要なスポーツである。多くの射撃愛好会があり、コーブルク射撃協会1354 (Schützengesellschaft Coburg 1354) は、男子空気銃でブンデスリーガ2部に所属する。変わった種目では、ダンス競技(de:Gadetanz)がある。Tanzsportgarde Coburger Mohr e.V.は、ドイツ全土で好成績を収めているチームの一つである。4つのドイツ選手権のタイトルと数多くのオーバーフランケン、フランケン、あるいは南ドイツ選手権のタイトルを獲得し、2006年の南ドイツ選手権大会を主催した。(ただし、コーブルクには小さな競技場しかなかったためバイロイトで行われた。)ハンドボールの南部地区リーグで男子1部リーグのHSC2000コーブルクも多くのファンを集めている。ホームゲームでは、1,270人のキャパシティの体育館に1,000人以上の観客がやってくる。オリエンテーリングでもコーブルクはその存在感を増している。2005年の男子ドイツ選手権で優勝し、連邦ランキング入りを果たした。 恒例行事コーブルクでは、ブラジル外では最大のサンバ・フェスティバルが毎年行われている。このフェスティバルは1992年以来毎年7月の3日間に10万人以上の観客を集めて行われている。2006年7月7日から9日には、8つの国から、80以上のサンバグループ、2200人以上が参加して市内9つのステージでサンバを披露した。第16回のサンバフェスティバルは、2007年7月13日から15日に行われる予定である。コーブルクは、コーブルクガー・コンヴェント (Coburger Convent, CC) の開催地でもある。これは、学生連合の協議会で、毎年、聖霊降臨祭(復活祭後の第7日曜日)の日に、会議、祝宴、たいまつ行列やスポーツ・イヴェントが開催される。 年に数回、コーブルク・バッハ合唱団によるクラシック・コンサートが聖モリッツ教会で行われる。さらに、7月末になると「バイエルン北部で最大のパーティー」と称されるシュロスプラッツフェストがエーレンブルク城と公立劇場との間で挙行される。 空き地の緑地帯では、春には春祭りが、8月の初めには射撃祭が行われる。これはコーブルク射撃協会1354 の主催によるもので、多くの観客を集める。 12月には伝統的な市であるクリスマス市 (Weihnachtsmarkt) が開催される。また、年に2回土曜の夕方から日曜日にかけて市内全域でコーブルクのノミの市が開かれる。 さらにここ2、3年は、ヨハン・シュトラウス音楽の日とコーブルク・アレクサンダー・ギラルディ国際歌唱コンクールが行われている。これにより街の人々は、1887年にコーブルク市民となったワルツ王を偲ぶのである。音楽の日は、最も近いところでは、2006年6月19日から7月2日に開催された。 名物料理
経済と社会資本コーブルクは、バイエルン州でも強力な経済力を持っている。過去には周辺地域の経済変動に十分に対抗してきた。この実り豊かな経済は、幅広い専門性と様々な経営規模がミックスされていることに負うところが大きい。 経済の統計データ以下のデータは、コーブルク商工会の担当地域の産業指数とバイエルン州統計局の2002年12月31日または2003年6月30日現在のデータに基づくものである。
就業者の内、約46%がサービス部門、35%が製造部門、19%が販売および運輸部門に従事している。約18,000人が日中はこの街に通勤してくる。官庁や公的機関には約3,000人の職場が存在する。 地元企業コーブルクで最も有名な企業であり最大の雇用者は、保険グループのHUK-Coburgである。1950年以来コーブルクを本拠とし、約4,100人の従業員を擁している。市内の駅近くと、コーブルク北部を通る連邦アウトバーンA73沿いのベルテルスドルファー・ヘーヘに事業所を構える複合体である。 製造業でも、これに次ぐ大きな企業があり、コーブルク経済を支える重要な軸足となっている。自動車産業の下請け会社ブローゼ(Brose)は1919年からこの街で生産している。この会社は、市の南部にある2つの現地工場に約2,200の従業員がいる。KAESERコンプレッサー有限会社は、1919年にカール・カエザーが創立した会社で、コンプレッサーや気体圧縮技術の主導的な企業である。全部で約3,000人の従業者の内、1,600人ほどがベルテルスドルフ地区にある事業所で勤務している。 ヴァルトリッヒ=コーブルク社(Waldrich-Coburg)、カップ社(Kapp)、あるいはラスコ社(Lasco)といった会社により、コーブルクは工作機械の街と強く主張される。ヴァルトリッヒ=コーブルク社は、精密加工センターあるいは精密加工機械のメーカーで、500人の従業員がいる。1919年にアドルフ・ヴァルトリッヒによって創立された。彼の婿に当たるベルンハルト・カップは、1953年に自身の会社の基礎を築いた。現在ではコーブルクに500人の従業員を抱え、かみ合わせ部分や特殊な成型物といった精密加工を行う研削盤の製造を行っている。ラスコ社は、1863年には既に、鋳鉄所および機械工場のランゲンシュタイン&シェーマン・エルンストヒュッテ・コーブルク社として操業していた会社で、300人の従業員が加工機械の製造を行っている。 この他の重点産業は、ガウトリッツ社(Gaudlitz)、ヘルマン・コッホ社(Hermann Koch)あるいはロス社(Ros)といった化学合成産業である。ガウトリッツ社は1937年創業、現在は400人の従業員が熱硬化性樹脂や熱可塑性樹脂で精密な成型物の生産を行っている。ヘルマン・コッホ社は1914年からコーブルクで操業している。280人の従業員で合成原料によるパッケージ材料を生産している。ロス社は1924年に設立され、現在はコーブルクに150人の従業員がおり、射出成形による樹脂成形を行っている。 商業地区『ラウテラー・ヘーエ』市の北部、アウトバーンA73沿いに、17haの広さの(70haまで拡張可能である)広大な造成された商業地域がある。この一部は隣町のラウタータールにかかる。市は1990年代の終わりに、ここにショッピングセンター兼レクリエーションセンターを作る計画を立てた。市中心部の商業従事者は都市周辺部の消費者の移動動態が変化することを危惧し、このため住民投票が行われた。7013票対6986票という僅差でショッピングセンターの建設が決定した。市と投資家はこの商業地区の発展に期待を寄せ、2004年4月に37,000m²の土地の入札が行われ、「コーブルク北部A73商業パーク」社がこれを落札した。 投資家たちは共同で、さらに、4,500席を有する多目的ホール、ホームセンター、食品のディスカウントショップ、飲料販売、卸売り販売、自動車販売や、ディスコなどを計画している。2006年の初めまでにファーストフード店やガソリンスタンドなどが準備を始めている。その他にも、近くにドラッグストア、新たな軽食レストランや、いわゆるアウトドア・スポーツの専門店も土地を購入している。1999年の時点ではすべてのプロジェクトが示されていないにもかかわらず、早期のコンセプトに基づいて説明がなされていたことが明らかとなった。反対者たちは、この点で先の住民投票が無効であると主張している。 交通近郊公共旅客輸送コーブルクの近郊公共旅客輸送は、Verkehrsgemeinschaft Coburg (VGC)、Zusammenschluss der SÜC Bus und Aquaria GmbH (SÜC)、Omnibusverkehrs Franken GmbH (OVF)の各社が担っている。都市部では総延長100kmほどの11本のバス路線があり、昼間は半時間に1本ほどの頻度で運行している。2006年現在、乗り換え停留所はモーレン通りまたはテアター公園にある。2007年10月には、テアター公園にバスの接続ポイントが完成する予定である。また、バスから直接列車に乗り換えることのできるZOB(駅直結型バスセンター)というシステムを駅に設ける計画もある。周辺部へは、通常コーブルク駅発の11本の路線がある。さらにドイツ鉄道の近郊線コーブルク=バート・ローダッハ線があり、2時間ごとに運行している。 遠距離公共旅客輸送昔は鉄道輸送が大きな意義を持っていた。1858年から1945年にはコーブルクからテューリンゲンとの州境を越えてマイニンゲンを経由してアイゼナハに至る東西の鉄道路線、ヴェラ鉄道があり、1939年には1日15本が運行していた。さらに1900年から1984年まではロサッハ行きの近郊路線であるイッツグルント鉄道や、1901年から1945年までは、エーバースドルフ=ゾンネフェルト=フュルト・アム・ベルクを経由してノイシュタット・バイ・コーブルクに至り環状線を形成していたシュタイナハタール鉄道があった。 1945年以降は、遠距離公共旅客輸送は、リヒテンフェルス行きの鉄道路線のみに整理された。ヴェラ鉄道の路線の一部はコーブルク=ゾンネベルク間の路線の一部として継続使用されており、ドイツ鉄道の普通列車と急行列車とが交互にそれぞれ2時間ごとに運行している。急行列車は、バンベルクを経由してニュルンベルクまで運転している。バイロイトやホーフ、ザールフェルトあるいはヴュルツブルクへはリヒテンフェルスでRBやREに乗り継がなければならない。あるいはミュンヘンやベルリンへはICEに乗り換える。 将来的には、遠距離路線は新たに建設されるニュルンベルク=エアフルト線に組み込まれ、ニュルンベルク経由でミュンヘンへ、あるいはエアフルト経由でベルリンへ行くことができるようになる。コーブルクがICEに組み込まれるためには、深い渓谷に路線を引きトンネルを設ける必要がある。2006年現在、ICEの予定路線が完成するのは2016年から2020年と予定されている。 道路交通市の中心部は多くの部分が歩行者専用区域となっている。市内に入るには近くのパーキングビル・マウアー、ポスト、ツィンカーヴェーレなどや、特別な行事がなければ利用できる無料の大駐車場を利用する。コーブルクには自転車道もほとんど存在しない。 遠距離の道路交通は、連邦道路B4がニュルンベルク方面とテューリンゲンを結んで南北に、B303がシュヴァインフルトとチェコを結んで東西に走っている。前者は街を縦断しB303は町の中心部には接する程度である。1990年までは国境地帯であったため、通過する交通はほとんど考慮する必要はなかった。それ以後、コーブルクを通過する交通量は大幅に増大した。そのため、ドイツ統一交通プロジェクトは連邦アウトバーンA73ニュルンベルク=リヒテンフェルス線をコーブルク経由でズールまで延長することを決定した。コーブルク=アイスフェルト間の区間はすでに開通しているがズールまでは2007年に、ニュルンベルクまで走れるようになるのは2008年の予定である。 航空交通小さな飛行場コーブルク=ブランデンシュタインスエベーネ(ICAOコード: EDQC)は、1913年にコーブルク航空基地として設けられ、市の所有となった。経営と管理は2001年から社団法人アエロクラブ・コーブルクが行っている。この飛行場は年間13,000回の離着陸がある。これは、平均的な離着陸回数である。滑走路の距離は860mで、最大離陸重量5.7tの飛行機まで利用可能である。きわめて短い滑走路に身を置いた離着陸のパイロットの周りを連邦空軍のTransall C-160機が飛来している。 他にも、南部のクライトリッツ地区の近く(ただし市域の外ではあるが)にコーブルク=シュタインリュッケン飛行場(ICAOコード:EDQY)がある。この飛行場は、距離700m、載貨重量2tの自由に使える芝の滑走路を有している。管理者および経営者は社団法人フルクテヒニシェ・アーバイツゲマインシャフト・コーブルクである。 公共機関と施設市の行政官庁の近くに以下の公共機関や施設がある。
教育施設図書館と文書館コーブルク公立図書館(Landesbibliothek Coburg)は、1547年に創設されたザクセン=コーブルク公国の宮廷および国立図書館を1919年に引き継いで設立されたもので、エーレンブルク城内に置かれている。この図書館は学術的な地方図書館で、40万冊の蔵書を有し、約85,000冊が17世紀から19世紀の古文書であるといわれている。この他に、ヘルンガッセには、コーブルク文化および商業組合が1874年に設立した公共図書館に由来する市立図書館(Stadtbüchrei)がある。 ツォイクハウス内にある州立文書館(Staatsarchiv)には、コーブルク市、コーブルク郡、バイエルン州、ザクセン=コーブルク公国あるいはその前史を物語る30万点以上の史料が保管されている。さらに、シュタインガッセの市立文書館(Stadtarchiv)には、13世紀にまでおよぶ18,000点の公文書が存在する。 大学コーブルク専門大学 (Fachhochschule Coburg)が今日の形で創立されたのは1971年である。この大学の伝統は、1812年にザクセン公爵家の建築家であったフリードリヒ・シュトライプがコーブルクに創設した手工業学校にまで遡ることができる。1950年代の終わり、当時は地上建築と地下工事を教える技術学校であったのだが、新たに機械工学科と電子技術科を設けて工業専門学校へと拡張された。今日では専門分野は多岐にわたり、工学分野の他に、造形、経済、社会制度といった分野をも包含している。2006年現在、約3000人の学生がこの専門大学に在籍している。キャンパスはフェステ・コーブルクと向かい合った山の上にある。 州の認可を得た保健衛生医療を専門とする私立大学であるシュロス・ホーヘンフェルス専門大学は、2004年にコーブルク病院とMedau学校により創設された。2005年からは理学療法や言語療法の学士コースも開設された。 学校オーバーツェントラム(上位中心都市)の機能を背景に、コーブルクには11,000人の学生がおり、25の公立学校、16の私立学校が存在する。市は自らを学園都市(Schulstadt)と称する。市とその周辺地区には4つのギムナジウムがある。市内にあるのはアルベルティヌムで、一つは音楽と語学のギムナジウムでカジミリアヌム以降400年の伝統を持つ。もう一つは人文主義で、近代ごとヨーロッパ言語のギムナジウムである。他の2つのギムナジウムは、グロッケンベルクにある。アレクサンドリヌムは自然科学と工学技術、語学、経済学と社会学のギムナジウムで、エルネスティウムは数学と自然科学、経済学とヨーロッパ学のギムナジウムである。 この他に、専門高等学校 (Fachoberschule)や職業高等学校(Berufsoberschule)がある。さらに2つの職業学校(Berufsschule)や13の職業専門学校(Berufsfachschule、経済、家政学、保育、医療介護や幼児介護)、農業学校や商業学校がある。2つの実科学校、12の基礎学校(Grundschule)や基幹学校(Hauptschule)が州立学校として存在している。 私立で運営されている学校もある。メダウ・シューレ(Medau Schule)は、体育、理学療法、言語療法の専門学校である。ルドルフ・シュタイナー学校(ヴァルドルフ学校)、海外特派員学校ASC0や音楽学校もある。この他にコーブルク市とコーブルク郡は、歌唱・音楽学校や市民大学を運営している。 人物コーブルクで暮らした人物生涯の一時期をコーブルクで暮らし、あるいはコーブルクで亡くなった著名な人物
出身者以下にコーブルク出身の著名な人物を列記する。エントリーの際に、活躍の場がコーブルクであったか否かは考慮していない。多くの人物は他の土地で活躍している。また、この一覧表に挙げられた人物が著名人のすべてであると主張するものではない。
コーブルクと関わりのある人物の中に、マルティン・ルターがいる。彼は1530年に半年間フェステ・コーブルクに住んでいた。この間、アウクスブルクの帝国議会で、彼を追放に処するかどうかが議論されていたからである。 この他に、特筆すべき人物として、詩人で翻訳家でオリエント主義者のフリードリヒ・リュッケルトがいる。かれは1848年から亡くなる1866年までコーブルクのノイゼス地区に暮らし、この地を安息の地として選んだ。宮廷楽長で作曲家のヨハン・シュトラウス2世も1887年にコーブルクの市民となり、この街と親しい関係にあった。 コーブルクの名をもつものコーブルクの名は、新大陸の多くの土地で用いられている。それらの多くはこの地から移民した人々に由来するものである。 船:コーブルク号「コーブルク」の名は、いくつかの船につけられている。1910年に処女航海を行い、1917年にブラジル政府に押収された北ドイツ・ロイドの郵便汽船にこの名が付けられていた。1938年には北ドイツ・ロイドのディーゼル船と北海沿岸のトロール船が「コーブルク」号を名乗っている。第二次世界大戦中にこのトロール漁船は、気象観測に用いられ、1944年流氷のため遭難した。ディーゼル船は1941年にインド洋で沈没した。1950年から1953年にはハーパク(ハンブルク=アメリカ郵船株式会社)の大戦後初の新造船にこの名がつけられた。この他に、1968年から1991年にはドイツ海軍のリューネブルク級艦船(A1412)にもこの名が付けられた。 飛行機:コーブルク号1968年から1981年にコーブルクはルフトハンザのボーイング737の名親都市となった。1994年からは、登録番号D-AIRDのルフトハンザ機エアバスA321-131が「コーブルク」の名を付けられている。 特急列車: コーブルク号ドイツ鉄道の特急列車ICE T(411系)の1115号編成は2003年以降、コーブルクの名を付けられている。 コーブルク行進曲作曲家ヨハン・ミヒャエル・ハイドンは閲兵行進曲をザクセン=コーブルク=ザールフェルト家の公子フリードリヒ・ヨシアスに献呈した。この行進曲は、今日、「コーブルク行進曲」と呼ばれる。 地名:コーバーグカナダ・オンタリオ州の町コーバーグ(Coburg)。1818年にシャーロット王女とレオポルド公子(ザクセン=コーブルク=ゴータ家、後のベルギー王)の結婚を記念しこの名に改称された。 脚注
文献
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