テューリンゲン州 (1920年-1952年)

テューリンゲン州
Land Thüringen
1920年 - 1952年 エアフルト県
ゲーラ県
ズール県
テューリンゲンの国旗 テューリンゲンの国章
(国旗) (国章)
テューリンゲンの位置
1920年のテューリンゲン州
公用語 ドイツ語
首都 ヴァイマル
国家代理官
1933年 - 1945年5月8日 フリッツ・ザウケル
州首相
1920年 - 1921年アルノルト・パウルセン
1933年 - 1945年ヴィリー・マルシュラー
面積
1926年11,763km²
人口
1926年1,607,339人
変遷
合邦 1920年5月1日
州憲法成立1921年3月11日
州解体1952年
現在ドイツの旗 ドイツ
先代次代
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ自由州 ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ自由州
ザクセン=マイニンゲン自由州 ザクセン=マイニンゲン自由州
ザクセン=アルテンブルク自由州 ザクセン=アルテンブルク自由州
ザクセン=ゴータ自由州 ザクセン=ゴータ自由州
シュヴァルツブルク=ルードルシュタット自由州 シュヴァルツブルク=ルードルシュタット自由州
シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン自由州 シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン自由州
ロイス人民州 ロイス人民州
エアフルト県 エアフルト県
ゲーラ県 ゲーラ県
ズール県 ズール県
テューリンゲン州の位置。1945-1952年の地図

テューリンゲン州ドイツ語: Land Thüringen)またはテューリンゲン自由州テューリンゲン自由国ドイツ語: Freistaat Thüringen)は、1918年のドイツ革命で君主制を廃したテューリンゲン諸邦が1920年に合邦して成立した、ドイツ国の州である。ヴァイマル共和政からナチス・ドイツ第二次世界大戦後のソ連による占領を経てドイツ民主共和国の州となり、1952年に県に分割されて解体された。

概要

1920年5月1日にテューリンゲン諸邦のザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ自由州ザクセン=マイニンゲン自由州ザクセン=アルテンブルク自由州ザクセン=ゴータ自由州シュヴァルツブルク=ルードルシュタット自由州シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン自由州ロイス人民州が合邦して成立した。テューリンゲン諸邦のうち、コーブルク自由州だけはバイエルン自由州との合邦を選んだ。プロイセン自由州ザクセン県(1815年のウィーン会議ザクセン王国からプロイセン王国に割譲された領土)のテューリンゲン地方を取り戻そうとする取り組みもあったが、その努力が実を結ぶことはなかった。

しかし、数世紀に渡って断片化されていたテューリンゲン地方とフランケン地方北部が、テューリンゲン州としてようやくほぼ一体となった。州都はヴァイマルに置かれたが、最大の都市はゲーラであった。

紋章

テューリンゲン州の紋章は、1921年4月7日に州議会で定められた[1]。赤地に銀色の星が7つ描かれているが、これは 1920年に合邦した7州を表している。

1933年にナチ党政権はこの紋章はユダヤ人の象徴であるダビデの星を連想させるとして変更させた。ナチ党がアルテンブルクの画家エルンスト・ミュラー=グレーフェにデザインさせた紋章は、中央にテューリンゲン方伯の紋章である「ブンデンレーヴェン (赤と銀の縞模様に塗り分けられたライオン)」にハーケンクロイツを持たせたものを配し、左上にはエルネスティン系ザクセン公家の「横縞にラウテンクランツ (上部に葉花冠をあしらった飾り帯)」、右上にシュヴァルツブルク侯家の「」、左下にロイス侯家のライオン、右下にフランケン大公ヘンネベルク家の「雌鶏」 を配したもので、元の紋章の要素として残ったのはインエスカッシャンの盾の形だけだった。この紋章は1933年から1945年まで使用されたが、あまりに動物が多く出てくるために「テューリンゲン動物園 (“Thüringer Tiergarten“)」と揶揄されることもあった。

第二次世界大戦が終結すると、州の紋章は「赤字に金色のライオンと8つの星」に改められた。8つめの星はプロイセン自由州ザクセン県から編入された地域を示している。この8つの星は、テューリンゲン地方の統合の象徴として、現在のテューリンゲン自由州の紋章にも引き継がれている。

成立

テューリンゲン諸邦では、1918年の末頃には早くもプロイセン領内を含むテューリンゲン地方を統一すべく交渉が持たれていた。しかしプロイセン自由州は領土変更を受け入れなかったため、1919年にいわゆる「小テューリンゲン主義」による解決を図る方針となった。

合邦交渉において、ザクセン=マイニンゲン自由州とコーブルク自由州は合邦に参加することに懸念を示した。レンシュタイクより南のフランケン地方北部は言語的にフランケン地方南部との繋がりが強固なうえ、1803年の帝国代表者会議主要決議バイエルン選帝侯領に組み込まれた土地だったからである。しかし、ザクセン=マイニンゲン自由州の懸念は、ゾンネベルク地区およびゾンネベルク商工会議所の存在保証を行うことで解消された。一方、コーブルク自由州は1919年11月30日に実施した住民投票でテューリンゲン州への参加反対に88%もの票が集まり、1920年7月1日にバイエルン自由州に合邦することになった。

1920年4月30日制定の統合法 (RGBl. I S. 841) でコーブルク自由州を除く7州での合邦が決定し、翌5月1日に州都をヴァイマルとする総面積11,763平方キロメートルのテューリンゲン州が成立した。1921年3月11日に制定されたテューリンゲン州憲法と、1919年の合邦規約は、いずれもドイツ民主党イェーナ支部代表であったエデュアルト・ローゼンタールが起草したものである。

1920年から1933年まで

ヴァイマルの旧国会議事堂

テューリンゲンでも、ヴァイマル共和政期は政治的混乱の時代であった。1923年10月、ドイツ社会民主党のアウグスト・フレーリヒは共産党との連立政権を発足させた。しかし、この「労働者政権」は共産党が暴力革命を企図していたことが露見するとヴァイマル共和国軍の介入に遭い、解散に追い込まれた。

1930年1月には、後にドイツ国内相となるヴィルヘルム・フリックが州内相兼教育相として入閣した。これは地方政府へのナチ党員の初入閣であった。フリックは1931年4月まで同職を務めた。さらに1932年にはテューリンゲン大管区指導者フリッツ・ザウケルが州首相に就任した。

テューリンゲン州では、州首相が元首であった。1920年から1945年までの州首相は以下のとおりである。

1933年から1945年まで

ナチ党が新たに指定した州の紋章

1933年にアドルフ・ヒトラー権力を掌握すると、強制的同一化により各州の自治権は奪われていった。ヴァイマル郡のノーラとバート・ズルツァには、反ナチ党分子を収容するための保護拘禁収容所が設けられた。ナチ党はさまざまな暴力機構を用いて反党分子を弾圧したが、反ナチ運動が収まることはなかった。州首相フリッツ・ザウケルはテューリンゲンの国家代理官に就任し、ヴィリー・マルシュラーが後任の州首相となった。1934年1月30日のライヒ改造法により、テューリンゲン州は自治権を完全に失い、州都ヴァイマルはナチ党のテューリンゲン大管区の管区都となった。また、テューリンゲン州政府庁舎はナチ党に接収された。元々ナチ党の大管区は党地方組織として国会の選挙区割に合わせて設けられていたため、テューリンゲン大管区の範囲にはエアフルトやシュマルカルデンも含まれていた。1937年にはヴァイマルの近くにブーヘンヴァルト強制収容所、1943年にはノルトハウゼンにミッテルバウ=ドーラ強制収容所が作られた。

第二次世界大戦中、テューリンゲン州はドイツの他の地域に比べると空襲の被害は小さかったが、工廠を併設していたミッテルバウ=ドーラ強制収容所に近いノルトハウゼンはほぼ完全に破壊された。この他、イェーナゲーラも大きな被害を受けた。エアフルトは市街の約10%が破壊された。

1945年までの管理

人口と行政区分

テューリンゲン州には、1922年9月の時点で91独立市と2013市町村、93無行政地区を擁していた (無行政地区のほとんどはマイニンゲン郡にあった)[2]。人口10万人を越えるような大都市はなく、数万人程度の中規模都市が22あった。ゲーラは州で最大の都市であったが、旧諸邦で最大だったザクセン=ヴァイマル=アイゼナハの首都で州第3位の都市ヴァイマルが州都となった。現在のテューリンゲン州州都であるエアフルトなどの大都市は当時プロイセン自由州ザクセン県に含まれており、テューリンゲン州には属していなかった。

都市 面積
(平方キロメートル)
人口
(国勢調査結果)
1925年 1933年 1939年
ゲーラ 47.52 81402 83,775 81,931
イェーナ 47.17 52,649 58,357 68,377
ヴァイマル 37.69 45,957 49,327 65,916
ゴータ 48.69 45,780 47,848 51,995
アイゼナハ 24.55 43,385 44,695 50,464
アルテンブルク 17,23 42,570 43,736 44,338
グライツ 44.18 37,490 39,903 38,933
アポルダ 16,66 25,703 27,834 27,936
アルンシュタット 26.93 21,693 22,024 22,619
ゾンネベルク 12.92 19,157 20,083 20,204
マイニンゲン 31.93 18,221 18,833 19,796
ザールフェルト 24.63 17,960 19,148 21,980
ルードルシュタット 16,72 15,711 16,863 18,222
ペスネック 147.82 14,625 15,712 16,045
ツェラ=メーリス 26,80 14,423 14,100 16,363
イルメナウ 10.75 13,612 14,258 16,306
シュメルン 16.57 13,475 13,928 13,020
モイゼルヴィッツ 10.69 11,571 11,050 10,660
アイゼンベルク 14,92 11,317 11,371 11,103
ツォイレンローダ 14,50 11,047 12,247 12,481
ヴァイダ 12.54 10,040 11,040 11,150
ゾンダースハウゼン 17.34 9,978 10,677 10,907

1922年10月に地方行政改革が実施され、10都市 (Stadtkreis) と16郡 (Landkreis、カンブルク地区を含む) となり、郡の区割りは郡裁判所の管轄範囲に合わせて定められた。人口は1925年6月16日に行われたテューリンゲン州初の国勢調査による数字である[3]

市/郡 下位市町村の数 人口
(1925年6月16日付)
旧区分 下位市町村の数 人口
アルテンブルク市 1 42.570 アルテンブルク 125 80,738
アルテンブルク郡 190 95,547
モイゼルヴィッツ 21 27,389
シュメルン 45 29,990
アルンシュタット市 1 21.693 アルンシュタット 43 48,217
アルンシュタット郡 98 88,292
ゲーレン 15 22,150
イルメナウ 17 29,763
シュタットイルム 24 9,855
カンブルク地区 ¹) 44 9.771 カンブルク 44 9,771
アイゼナハ市 1 43.385 アイゼナハ 52 70,376
アイゼナハ郡 157 96.525
ガイサ 23 7,437
ゲルシュトゥンゲン 20 12,237
カルテンノルトハイム 22 10,425
シュタットレンクスフェルト 14 9,509
タール=ハイリゲンシュタイン 10 12,434
ヴァハ 17 17,492
ゲーラ市 1 81.402 ゲーラ 65 104,905
ゲーラ郡 210 88,345
ノイシュタット・アン・デア・オルラ 39 17,986
アウマ地区 15 4,755
ローネベルク 45 20,009
ヴァイダ 47 22,092
ゴータ市 1 45.780 ゴータ 52 79,741
ゴータ郡 104 104,178
グレーフェントンナ 12 10,585
オーアドルフ 16 25,750
ヴァルタースハウゼン 24 32,634
ツェラ=メーリス 2 15,671
ツェラ=メーリス市 1 14.423
グライツ市 1 37.490 グライツ 52 61,548
グライツ郡 85 50,802
ツォイレンローダ 34 26,744
ヒルトブルクハウゼン郡 108 60,239 アイスフェルト 34 20,245
ヘルトブルク 19 7,054
ヒルトブルクハウゼン 24 16,724
テマール地区 15 7,956
レーミルト 16 8,260
マイニンゲン郡 98 84,750 マイニンゲン 44 39,044
オストハイム・フォア・デア・レーン 7 5,097
バート・ザルツンゲン 28 27,966
ヴァウンゲン 19 12,643
ルードルシュタット郡 105 65,693 ケーニヒゼー 31 15,382
オーバーヴァイスバッハ 12 14,971
ルードルシュタット 62 35,340
ザールフェルト郡 118 73.664 グレーフェンタール 34 20,120
ペスネック 19 19,166
ザールフェルト 42 28,855
ロイテンベルク地区 23 5,523
シュライツ郡 97 48,482 ヒルシュベルク 18 7,993
ローベンシュタイン 34 19,547
シュライツ 45 20,942
ゾンダースハウゼン郡 71 72,164 エーベレーベン 25 14,817
シュロトハイム地区 6 7,493
フランケンハウゼン 13 18,620
グロイセン 14 9,475
ゾンダースハウゼン 13 21,759
ゾンネベルク郡 56 79,896 シャルカウ 19 8,878
ゾンネベルク 30 46,254
シュタイナハ 7 24,764
シュタットローダ郡 ²) 195 77,098 アイゼンベルク 39 22,473
カーラ 40 16,583
シュタットローダ 55 20,128
イェーナ 62 70,563
イェーナ市 1 52,649
ヴァイマル市 1 45,957 ヴァイマル 49 61,792
ヴァイマル郡 208 102,802
アルシュテット 11 9,023
ブランケンハイン 41 17,958
ブットシュテット 29 17,834
グロースルーデシュテット 21 14,814
フィーゼルバッハ 25 9,427
アポルダ 34 43,614
アポルダ市 1 2,703
テューリンゲン州 1,954 1,609,300 テューリンゲン州 1,954 1,609,300

¹)1939年3月16日の州法により、カンブルグ地区は1939年4月1日付でシュタットローダ郡に編入された。 ²)シュタットローダ郡は、1922年の時点ではイェーナ=ローダと呼ばれていた (出典: Die neue Kreiseinteilung des Landes Thüringen vom Jahre 1922

領域変更

1928年にはザクセン自由州とテューリンゲン州で境界の調整が行われ、ザクセン自由州の土地1,778ヘクタールおよび住民2,900人と、テューリンゲン州の土地1,115ヘクタールおよび住民4,890人が交換された[4]

1944年4月1日にはプロイセン自由州ヘッセン=ナッサウ県が解体され、シュマルカルデン郡が分割されてエアフルト行政管区とザクセン県に統合された。エアフルト行政管区は州総督としてのテューリンゲン国家代理官に従属していたが、法律上はプロイセン自由州の領土であることに変わりはなかった。この地域が法的にもテューリンゲン州に組み込まれるのは、第二次世界大戦後のことである。

第二次世界大戦後

東ドイツ初期のテューリンゲン州(1949–1952)
1952年までのテューリンゲン州の紋章

1945年3月末には連合軍がテューリンゲンに接近した。もはや敗戦間近なのは誰の目にも明らかであったが、ナチ将校はテューリンゲンを防衛大管区とし、アイゼナハの西にあるヴェラ川の防衛線を最後の1人になってでも死守するよう厳命した。このため4月1日のトレーフフルトおよびゲルストゥンゲンの戦いには国民突撃隊ヒトラーユーゲント、さらには後方で休養中だった兵士までが動員され、アメリカ軍との戦闘で350人が死亡し、クロイツブルクは市街の約85%が破壊された。非力な混成部隊ではアメリカ軍の攻勢を押しとどめることはできず、それから2週間もしないうちにテューリンゲン州全体がアメリカ軍の占領下に置かれた。また、4月6日にはゲーラが空襲を受けた。

ヤルタ会談での決定により、テューリンゲン州はオストハイム・フォア・デア・レーンの飛び地を除いて、1945年7月2日から6日にかけてソ連占領地帯 (SBZ) に組み込まれた。その際、テューリンゲン州にはプロイセン自由州からエアフルト行政管区が編入されて総面積は15,585km²となり、新憲法が制定されて紋章も改められた。一方、オストハイム・フォア・デア・レーンはアメリカ軍占領地帯となったバイエルンに編入された。

1946年には自由選挙で州議会が選出された。1949年にドイツ民主共和国が建国されたが、1950年の選挙はドイツ社会主義統一党とその衛星政党による選挙連合「国民戦線ドイツ語版」しか立候補が許されない形ばかりの選挙で、秘密投票の原則も侵され、棄権したり投票しなかった者は迫害を受けた。その後、1952年に中央集権体制を確立するため、州の自治権を縮小して県に分割することが決定され、同年に行われた憲法改正によって、エアフルト県、ゲーラ県およびズール県の3つに分割された。

戦後の州首相

参考文献

外部リンク

出典

  1. ^ Gesetz über das Wappen und die Landesfarben Thüringens vom 7. April 1921 (Gesetzsammlung für Thüringen 1920 S. 21).
  2. ^ Thüringischen Statistisches Landesamt (Hrsg.): Kreiseinteilung des Landes Thüringen vom Jahre 1922. 2. Auflage. Kommissionsverlag von Gustav Fischer, Jena 1922, S. 41
  3. ^ Quelle: Staatshandbuch Thüringen 1926
  4. ^ Karte mit den Austauschgebieten