クルトネー家
クルトネー家(フランス語:Maison de Courtenay、英語:House of Courtenay)は、中世の貴族の家系であり、フランス、イングランドおよび聖地に居を構えた。支流の一つは、フランス王家の分家となり、コンスタンティノープルのラテン皇帝の称号を獲得した。 起源クルトネー家は、フランスのクルトネーの初代領主であるユットン(またはアトン、fr)が始祖である。ユットンは、ブルゴーニュ公オット=ギヨームとフランス王ロベール2世の間で起こったブルゴーニュ公国の後継者争いに乗じて領土を獲得し、自ら築いた町の名を姓とし、自らの領地を確立した。 ユットンの跡を継いだ息子のジョスランには3人の息子がいた。クルトネー領を継いだミロン、第1回十字軍に参加しエデッサ伯となったジョスラン、そして同じく聖地で戦い、そこで亡くなったジョフロワである[1]。 12世紀、ミロン・ド・クルトネー(1127年没)の息子ルノー・ド・クルトネー(1190年没)は、フランス王ルイ7世と反目しイングランドに移住した。ルイ7世はルノーのフランスの領土を没収し、ルイの弟ピエールとルノーの娘エリザベートを結婚させ、領地をピエールに譲った。このため、ピエールは「ピエール1世・ド・クルトネー」と名乗るようになった。ピエール1世の息子、ピエール2世は後にコンスタンティノープルのラテン皇帝となった。 十字軍国家のクルトネー家ジョスラン・ド・クルトネーは第1回十字軍の第3波とともに十字軍国家に到着し、有能さを発揮し、トゥルベッセル領主、ガリラヤ公[2]、そして(1118年には)従兄弟のボードゥアン2世の跡を継いでエデッサ伯となった[3]。1131年に息子のジョスラン2世が跡を継いだが、エデッサ伯国は1144年に失われ、ジョスランは1159年に捕虜となって亡くなった。息子のジョスラン3世が名ばかりのエデッサ伯となり、妹のアニェスはアモーリー1世と結婚しエルサレム王妃となった。 アモーリー1世の2番目の妻、エルサレム王妃マリア・コムネナは、イブラン家のバリアン・ディブランの妻となった。ジョスラン3世は1190年代に亡くなり、2 人の娘が跡を継いだ。ジョスラン3世の最後の領地はドイツ騎士団の手に渡った。妹アニェス・ド・クルトネーは、ボードゥアン4世とシビーユという2人のエルサレム君主の母親であった。アニェスは後に、1187年にエルサレムをサラディンに明け渡したバリアンの弟、ユーグ・ディブランと結婚した。 イングランドのクルトネー家ルノー・ド・クルトネーの孫、デヴォンのオークハンプトンの男爵ロバート・ド・コートネイ(1242年没、母アヴォワーズ・ド・キュルシー(1219年没)の権利により男爵[4])は、第5代デヴォン伯ウィリアム・ド・レドヴァズ(1217年没)の娘で相続人であるメアリー・ド・レドヴァズと結婚した。デヴォン伯はデヴォンのティバートン城とプリンプトン城を本拠地としていた。1293年に第8代デヴォン女伯イザベル・ド・フォルツ(第7代デヴォン伯ボールドウィン・ド・レドヴァズ(1236年 - 1262年)の妹で相続人)が死去すると、ロバート・ド・コートネイ(1242年没)の曾孫で従兄弟のオークハンプトン男爵ヒュー・ド・コートネイ(1340年没)が初代/第9代デヴォン伯として跡を継いだ[5]。 しかし、ヒューのデヴォン伯の称号は1335年まで正式に認められず[6]、それが新たに創設されたものなのかレドヴァズ家の称号の継続なのかは不明のままで、現代のさまざまな資料では彼を初代デヴォン伯か第9代デヴォン伯のどちらかとしている。ティバートン、オークハンプトン、プリンプトンに居を構えた嫡流は薔薇戦争中の1471年に断絶したが、伯爵位は1485年、1511年、1553年にさらに3回、親族のために再興されたが、いずれも第2/10代伯の長男の子孫であった。初代デヴォン伯ウィリアム・コートネイ(1475年 - 1511年)は、ヨーク朝のエドワード4世の次女キャサリンと結婚し、デヴォン伯家はイングランド王位継承順が上位となった。 初代デヴォン伯エドワード・コートネイ(1527年 - 1556年)が1556年にパドヴァで未婚で死去すると、1553年に創設されたばかりのこの称号は、後に第9代デヴォン伯となったウィリアム・コートネイ子爵(1768年 - 1835年、デヴォンのパウダーハム城を拠点とする分家で、第2/10代伯爵の四男の子孫)が、単に休止状態であると確認し、1831年に貴族院がそれを宣言するまで消滅したものとみなされた[7]。その後一族は男系で存続し、パウダーハムの第19代デヴォン伯チャールズ・コートネイが現当主である。 カペー=クルトネー家ルノー・ド・クルトネーの娘エリザベートは、ルノーと対立していたフランス王ルイ7世により、末弟のピエール・ド・フランス(1183年没、以後ピエール1世・ド・クルトネーとして知られる)と結婚し、ルノーから没収されたフランスの領土はピエール1世に与えられた。ピエール1世とエリザベートの子孫は、フランス王家であるカペー家の分家であるカペー=クルトネー家となった。子孫は結婚によりナミュール伯領およびラテン皇帝位を獲得した。この家系の男系は1733年に断絶し、クルトネーという名前はボッフルモン公爵家に引き継がれた。ボッフルモン家の当主は神聖ローマ帝国の諸侯、さらにナポレオン・ボナパルトにより帝国伯爵となり、ルイ18世によって公爵となった。 フランス王位継承権に対する主張1589年にフランス王アンリ4世が即位してフランス王位を獲得したブルボン家は、カペー朝のもう一つの分家であった。サリカ法の下では、ユーグ・カペーの男系を継ぐ男性が血統親王である。つまり、王室や他のより王家に近い分家の男系が途絶えた場合、血統親王にはフランス王位を継承する権利があった。そのため、当時不遇な状況にあったカペー=クルトネー家は、フランス王ルイ6世の子孫であり、「血統親王」および「王のいとこ」の2つの称号、およびその保持者に与えられる諮問議会とパリ議会の議席が与えられるよう求めた。 さらに、ブルボン家は17世紀半ばまで、男性の成員を大量に輩出することが困難であった。カペー=クルトネー家は、ブルボン家に次いで、カペー家の現存する男系の最上位の分家であり、サリカ法の厳格な適用のもとで、ブルボン家が滅んだ場合には王位が彼らに引き継がれることになっていた。 アンリ4世、ルイ13世、ルイ14世の3人のブルボン家の王は続けて彼らの嘆願を拒否した。ブルボン家の君主たちがフランス王家をルイ9世の子孫に限定していたことは、カペー家ではないロレーヌ家をブルボン家に次ぐフランス王位継承者として指名し、カペー家の分家であるクルトネー家を回避したモンマルトル条約(1662年)によって証明されている。クルトネー家はこれに抗議したが、親王(prince)の称号に対するクルトネー家の主張はパリ会計院によって認められることはなかった。 フランスのクルトネー家の最後の男性子孫は1733年に亡くなった。その姪はボッフルモン侯爵と結婚し、その子孫は有効性が疑わしいものの「クルトネー公(Prince de Courtenay)」の称号を引き継ぎ、今日までその称号を引き継いでいる。ボッフルモン侯爵は、1757年6月8日に神聖ローマ帝国の諸侯(Prince)に叙され(すべての男系子孫が相続可能)、この称号はフランスで認められた。ボッフルモン=クルトネー家は、カロンシー公およびボッフルモン公の称号を保持する。 系図
脚注
参考文献
外部リンク |
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