クリスティーナ・カルドーニ
クリスティーナ・カルドーニ(Christina Maria Kardooni、1989年8月28日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。カリフォルニア州サクラメント出身[1]。クリスティーナ・ヴォン・イーリー(Christina Von Eerie)のリングネームで知られる。 日本の女子プロレス団体、スターダムではクリスティーナ・フォン・エリー表記になっている。 来歴キャリア初期イラン系の父とイタリア系の母の間に生まれる[2]。 10代で地元サクラメントのプロレスリング・スクール、スプリーム・プロレスリング・トレーニングアカデミー(SPW)でトレーニングを開始。2006年にプロレスラーとしてデビューし、PWR、IWL、XPW、AWSといったインディー団体に参戦。ハードコアマッチやインタジェンダーマッチなどを多く経験し、SPWの9周年アニバーサリー興行で行われたデスマッチには男性レスラー6名を相手に唯一女性レスラーとして出場。スチールケージ・椅子・梯子・有刺鉄線・工業用ホッチキス・蛍光灯などが使用された中、敗れはしたものの存在感の強さを示した。 この時から現在でも使われている奇抜なスタイルをしてパンク・プリンセスと呼ばれるようになった。 インディー団体2009年9月、PWGに参戦。クリスティーナを含んで女性レスラーがたった二人しか所属していなかったが、もう一人の女子レスラー、キャンディス・リレイだけでなく男性レスラーとも試合を多く行うようになり、心身をスケールアップ。 2010年3月5日、メキシコの二大メジャー団体の一つであるAAAに参戦。数々の団体で培った荒々しいハードコアスタイルはAAAの女性レスラーには珍しく、ファンからの反応も上々であった。入団して7日しか経っていない12日にはAAAの大きなイベントの一つであるレイ・デ・レイエスに6人タッグながら出場という破格の扱いを受けた。以後、パンク・プリンセスらしく暴れ回り7月にAAAのユニットフォーリン・リージョンに加入。AAA世界混合タッグ王座戦にて、それまで接点のなかったアレックス・コズロフと組んで挑戦した際に、窮地のところをコズロフが身を挺してクリスティーナを守ったことからクリスティーナがコズロフに恋をするというストーリーラインに発展し、相手であったタッグ王者のファビー・アパッチェ & エアロスターと抗争を開始。ノンタイトル戦を含め、数度戦いを繰り広げて王座を奪取することに成功した。王座陥落後も、コズロフとのタッグは継続していたが11月にコズロフがWWEに移籍してタッグは自然消滅することとなった。 2011年3月、女子プロレス団体のShimmerに参戦。Vol.26、27でプロモーションを行っていただけに初参戦であるVol.37からサラ・デル・レイと対戦。以後、メルセデス・マルチネスやチアリーダー・メリッサなどを相手に活躍。しばらくして自身のステップアップするためにチーム3Dアカデミーにてトレーニングを開始。 TNATNAに所属するジェシー・ニール、チーム3Dと関係を持っていたおかげかTNAに参戦することが決定。2011年9月よりトキシンのリングネームでデビュー。ニールとシャノン・ムーアのタッグ、インク・インクのマネージャーとなり10月13日の収録においてメキシカン・アメリカに襲われるニールとムーアを救出する形で登場した。メキシカン・アメリカとの抗争においてはロシータ & サリータと試合を行うなどしたが、この両ユニットの抗争は不良に終わった。以降、インク・インクの3人は出番を失い、クリスティーナは解雇された。 インディー団体TNA解雇後、再びインディー団体で活動を行うようになり、2012年よりDRAGON GATE USA、Shine、CZW、Shimmerに参戦。DGUSAでは戸澤陽のマネージャーとして活動。10月、スターダムで初来日。木村響子とタッグチーム、キムラモンスター軍☆を結成し、タッグリーグであるGODDESSES OF STARDOMに出場するが勝ち点3で予選落ちとなった。 2015年7月24日、ジェフ・ジャレットが主宰するGFWのAmpedに参戦。 同日より開始された初代GFW女子王者決定トーナメントにエントリー。1回戦にてミッキー・ジェームス、レイディー・タパと対戦。最後にタパからフォールを奪い勝利。しかし、試合後にミッキーもろともタパからサモアンドロップを喰らった[3]。10月23日、GFW Ampedにて決勝を行い、アンバー・ギャローズと対戦して勝利。初代王者となった[4]。 その他
得意技
獲得タイトル
脚注
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