クライド・マクファター
クライド・マクファター (Clyde McPhatter、本名:Clyde Lensley McPhatter、1932年11月15日 - 1972年6月13日)は、アメリカ合衆国の黒人歌手。 ビリー・ワード&ザ・ドミノス、ドリフターズを経てソロ歌手になる。ドミノス時代から一貫して、ハイテナーボイスと張りのある声で「ラヴァーズ・クエスチョン」をヒットに導く。 1972年に39歳で死去。15年後の1987年にロックの殿堂入りを果たす。 来歴1932年11月15日、ノースカロライナ州ダーラムにて、厳格なバプテストの一家に生まれる。幼い頃から聖歌隊の一員として歌っている。第二次世界大戦後にニュージャージー州に引っ越し、1950年、18歳の時にビリー・ワード&ザ・ドミノスに加入し、フェデラル・レコードから「シクスティー・ミニット・マン」を発売する。 1953年春、アトランティック・レコードの創設者アーメット・アーティガンによって才能を見出され、同年アトランティック・レコードと契約、ドリフターズ (アメリカ)のリード・シンガーとしてデビューを果たす。 マクファターがリードをとったドリフターズのデビューシングル「マネー・ハニー」は、最初のロックンロールのレコードの一つとされており、また後年にエルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードによってカバーされる。 1954年、兵役で空軍に所属し、ドリフターズを脱退する。翌年に兵役が終わり、再びアトランティック・レコードにてソロ歌手として活動をする。ソロ・デビュー曲は、同じ会社に所属していたルース・ブラウンとのデュエットであった。 しばらくシングルを出していたマクファターであったが、そのどれもがR&Bチャートで上位を記録する。しかし、1956年発売の「ウィズアウト・ラヴ」が19位、「トレジャー・オブ・ラヴ」が13位、そして1958年発売の「ラヴァーズ・クエスチョン」が6位と、それぞれポップチャートの上位入りを果たしている。 1959年、アトランティック・レコードからMGMレコードに一年間在籍するが、ヒットは出ていない。後にマーキュリー・レコードに移籍し、「タ・タ」、「ラヴァー・プリーズ」をそれぞれチャートインさせているが、散発的であった。次第に過度の飲酒をしてしまう。 1968年イギリスに移住する。1970年帰国し、再び活動を始めるも、2年後の1972年6月13日に心臓発作で39歳の若さで死去。 1987年、ロックの殿堂入りを果たし、またドリフターズも1988年に同じくロックの殿堂入りを果たしている。 エピソードマクファターは、1954年に兵役の為脱退し、後にドリフターズに戻ったという経歴は無い。しかし、マクファターが脱退した後のドリフターズにはマクファターと声質が似ているメンバーが加入していた。 一人はジョニー・ムーア[1]で、1957年に「フールズ・フォール・イン・ラヴ」、1964年に「渚のボードウォーク」を歌っている。 もう一人はボビー・ヘンドリックスで、1959年に「ドリップ・ドロップ」を歌っている。 ディスコグラフィーシングル・ディスコグラフィー [2]
アルバム・ディスコグラフィー [2]脚注
参考文献
関連項目
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