ガズヴィーン州
ガズヴィーン州(ガズヴィーンしゅう、ペルシア語: استان قزوین, ラテン文字転写: Ostān-e Qazvīn)はイランの州(オスターン)。イラン北西部に位置し、州都はガズヴィーン。 地理と気候面積は15,821km²。東経48度45分から50度50分、北緯35度37分から36度45分にかけて位置している。北にマーザンダラーン州、ギーラーン州、西にハマダーン州、ザンジャーン州、南にマルキャズィー州、東にアルボルズ州と境を接する。 州内の山々ではサイヤーラーン、シャー・アルボルズ、ハーシュチャール、セフィード・クーフ、ショジャーイェ・ディーン、アレフターレフ、ラーマンド、アグ・ダグ、ハラガーン、サーリーダグ、ソルターン・ピール、スィヤーフクーフが有名である。このうちシャー・アルボルズが4056m、サイヤーラーンが4175mでもっとも高い。すべてアルボルズ山脈の中央部に属する。最も標高が低いのはターロメ・ソフラーである。 気候は、北部では冬に寒く降雪があり、夏は温暖である。南部は冬にやや寒く、夏暑い。 住民人口人口は2003年現在、100万強。62%が都市に住み、38%が農村で暮らしている。男女比は男50.7%に対し、女49.3%。識字率は82%強で、全国第7位である。 民族
言語ペルシア語、ターティー、アゼリー、ギーラキー、タリーシュなど。 宗教ムスリムが99.6%で大部分を占め、その他の宗教が0.4%。 概要と歴史ガズヴィーンはサファヴィー朝の旧都で、2000を超える建築・遺跡などの文化財がある。文化的中心として古くより栄えたガズヴィーンの街が、今日の州都ガズヴィーンである。 ガズヴィーン平原における農耕定住地の存在は紀元前7000年ころまで遡ることが考古学的調査によって判明している。「ガズヴィーン」の名はカスピ海南岸に分布したカス族(Cas)に由来し、西洋の文献ではKazvinやKasvin、あるいはCasbinと転写されてきた。カスピ海の名も同様にカス族に由来する。ガズヴィーンはテフラーン、エスファハーン、ペルシア湾とカスピ海沿岸、アナトリアの結節点に位置し、長く戦略上の要衝となってきた。 ガズヴィーンはイラン史を揺り動かす震源であったといってもよい。イスラーム初期にはアラブ軍の拠点となった。13世紀にはチンギス・ハーンによる破壊を受けた。サファヴィー朝は1548年以降、1598年にエスファハーンに遷都するまでガズヴィーンを首都とした。ガージャール朝以降、ガズヴィーンはテフラーン周辺にあって、政府によるイラン統治の最重要拠点であった。 両大戦期にはロシア帝国軍、ソヴィエト連邦軍による攻撃と占領を受けた。パフラヴィー朝の成立に至る1921年のクーデタもまたガズヴィーンから始まった。ガズヴィーンはアラムート城砦にも近い。「暗殺教団」として知られるニザール派(シーア派イスマーイール派の一派)の拠点となった場所で、指導者ハサネ・サッバーフはここから指揮を執った。このような歴史を経て、ガズヴィーンは人口29,000(1996年現在)のガズヴィーン州の州都となって現在に至っている。 行政区分ガズヴィーン州は4郡(シャフレスターン)、18地域行政区(バフシュ)、20市(シャフル)、44行政村域(デヘスターン)、1543村(デフ)を擁する。 ガズヴィーン州の郡(シャフレスターン)と市(シャフル)を以下に示す。
経済農業ガズヴィーン州の耕地は13,000km²、イラン総耕地の12%を占める。多数のガナートや深い井戸、ターレガーンおよびズィヤーラーンのサングバーン・ダムからの運河によって灌漑されている。おもな農産品はブドウ、ヘイゼルナッツ、ピスタチオ、アーモンド、クルミ、オリーブ、リンゴ、小麦、テンサイ、ザクロ、イチジク、その他の穀物である。畜産、養鶏、漁業も州内各地で行われている。 産業ガズヴィーン州はテフラーンとタブリーズを結ぶ鉄道、高速道路の経由点にあり、パフラヴィー朝以来、ガズヴィーン州はその好立地により、イランにおける産業発展の旗手の役割を果たしている。ガズヴィーン州は今日では綿織物、絹織物、ビロードなどの織物貿易の中心地で、皮革も扱う。ガズヴィーンにはイラン最大の発電所の一つシャヒード・ラジャーイー発電所があり、イランの電力の7%を供給している。 教育高等教育機関ガズヴィーンの名勝、観光地ガズヴィーンには最も古いもので9,000年前にさかのぼる複数の考古学遺跡がある。また 23のニザール派などの城塞跡が周辺に残る。ガズヴィーン市内にはサーサーン朝代の遺跡の一つ、メイムーン・ガルエがある。 ガズヴィーンが首都となったサファヴィー朝代から残る建築は多くはない。その中で最も有名なのは、ガズヴィーン中心部のアリー・カプ邸宅で、今日では博物館となっている。 モスクイスラーム、特にスーフィズム、ハディース学、法学(フィクフ)、哲学の隆盛により、ガズヴィーンには多くのモスク、マドラサ(イスラーム学院)が建てられた。その中でも有名なものを以下に示す。
教会、ロシア建築ガズヴィーンには19世紀末から20世紀初にかけてのロシア人の建築が3つ残っている。現在の市庁舎(以前はバレー劇場)、貯水施設、正教会である。教会にはロシア人が葬られている。 ピエトロ・デッラ・ヴァッレ(1588-1713)、ジャン・バティスト・タヴニエ(1605-1689)、ジャン・シャルダン(1643-1713)らの旅行家によれば、ガズヴィーンには長い間、さまざまな宗派のクリスチャンが数多く生活していたという。ガズヴィーンには聖フリプシメ教会があり、イエス・キリストの顕現を4人のユダヤ教預言者が伝えたのもこの地であると伝わる。その墓所は民間の信仰を集めて「ペイガムバリーイェ」と呼ばれている。 城塞今に残る城塞のほとんどが中世イスマーイール派ニザール派のものである。
墓廟墓廟建築はガズヴィーン州の魅力の一つである。セルジューク朝の二人の王子、サアドの子アブー・サイード・ビージャールとタキーンの子アブー・マンスール・イルターイーの墓廟は、二つの塔にわかれており、「ハラガーン双子塔」として知られている。1067年の創建で、非円錐二重のドームを用いた最初のイスラーム建築である。2003年3月の地震によって激しい損傷を受けた。 その他、ガズヴィーン州内の著名な墓廟・墓地は以下の通り。
伝統的貯水施設古くは「貯水施設(アーブ・アンバール)の街」 と呼ばれ、ガズヴィーンには貯水施設が多く100余があったというが、現在では10が残されているに過ぎない。これらはガズヴィーン州文化遺産協会によって保護されている。
バーザール、キャラヴァンサライガズヴィーンには古いバーザールやキャラヴァンサライの好例が残されている。
旧市門・その他の史跡ガズヴィーンの市門は9世紀には7つがあったといい、その後ガージャール朝代には以下の9つになっている。それぞれの市門(ペルシア語: دروازه darvāze)を通って、道は周辺の都市などに通じていたのである。
20世紀に入っての急速な市域拡大により、今日では最後の2つしか残っていない。その他のガズヴィーン州の史跡には以下のようなものがある。
ガズヴィーンの著名人ガズヴィーンに生まれ、あるいは暮らし、あるいは葬られた学者、スーフィーは実に数多い。墓廟はガズヴィーン州内各所に点在している。立派なシャーザーデ・ホセイン廟もあるが、シーア派のイマーム・フサイン自身はガズヴィーンの出身ではない。
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