カレー包囲戦 (1558年)

カレー包囲戦
Siège de Calais
Siege of Calais
第六次イタリア戦争英仏戦争 (1557年–1559年)英語版

『カレーの包囲』、フランソワ=エドゥアール・ピコによる1838年の絵画
1558年1月1日1月8日[1]
場所フランスの旗 フランスカレー
結果 フランス王国の勝利
フランスがカレー及び周辺を占領[2]
衝突した勢力
フランス王国 イングランド王国の旗 イングランド王国
指揮官
ギーズ公フランソワ イングランド王国の旗 トーマス・ウェントワース (第2代ウェントワース男爵)en:Thomas Wentworth, 2nd Baron Wentworth
戦力
27,000[2] 2,500

1558年カレー包囲戦フランス語:Siège de Calais、英語:Siege of Calais)は、当時神聖ローマ帝国側で第六次イタリア戦争に参加していたスペイン王国のオランダ侵攻を受けて、時のフランス王アンリ2世によって北フランスに緊急招集された王国の中将ギーズ公フランソワが、カレーの地を包囲した戦いのこと。この戦いにより1558年1月8日に、1347年8月4日以来イングランド領となっていた[注釈 1]同市は210年の時を経て、フランス王国領に戻ることになった。

背景

フランスにおけるピカルディ地域圏の位置、カレーはこの真北に位置しイギリス海峡を望む

12世紀ごろ要塞化されたカレーの地は、1347年イングランド王エドワード3世による1年弱に及ぶ包囲の末イングランド領となっていたが、後の百年戦争により1453年以降はイングランド唯一の大陸領土(ペイル・オブ・カレー英語版)となっていた。ブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレール[注釈 2]の死(1477年)とピカルディ地方[注釈 3]のフランス王室への併合により、カレーの領有をめぐる状況は変容しつつあった。しかしそれ以来1世紀に渡り、歴代のフランス王は豊かで技術的にもヨーロッパで先行しているイタリアに注力していた。フランスやブルゴーニュの国境地帯に近く、両国の軍と守備隊が小競り合いをすることがよくあったというが、対立していたフランスとブルゴーニュはカレーが互いの手に渡るのを恐れていたためカレーはイングランドの支配下に留まり続けることになった。一方でイングランドは16世紀に3回(1526年1544年1547年)ピカルディへ向けた攻撃を行っており、フランス王国は悩まされていたといえる。

アンリ2世と協力し反スペイン同盟に与していた[3][4]時のローマ教皇パウルス4世の呼びかけで、1557年にフランスは[注釈 4]イタリア戦争を終結させるヴォセルの停戦フランス語Trêve de Vaucelles)を取り消し、ナポリ王国に敵対行動を再開させた。これに対抗してスペイン王国も、チェレゾーレ英語版以来の戦闘行為を再開することとなり、ピカルディへ侵攻。当時のスペイン王フェリペ2世(在位:1556年 - 1598年)はサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトと同盟してサン=カンタンの戦い英語版にてアンヌ・ド・モンモランシーをして大敗せしめた。この戦いでモンモランシーは戦死を免れたものの、優秀な大将を破ったスペインはパリへの道を開くことに成功した。このような状況(フランスにとっての危機)において、軍を率いてイタリアへ進まんとしていたフランソワ・ド・ギーズは、ピカルディに戻され、フランス軍中将に昇進することとなった。

1557年スペイン側で参戦したイングランドの遠征軍を退けるべく、アンリ2世は、コンピエーニュモントルイユブーローニュ=シュル=メールに約30000人の兵士を集めて、冬にカレーを攻撃することを秘密裡に計画した。

包囲戦

1477年の地図。「Calais」と書かれた部分を含む黄色の部分が百年戦争後もイングランドが保持した「イングリッシュ・ペイル(English Pale)」あるいは「ペイル・オブ・カレー(Pale of Calais)」と呼ばれる地域である。

カレー近郊のユーの森フランス語Forêt d'Eu)の辺りには、衣服パンワイン火薬などが集められていたという。[5]また、自然の防壁がないため、イギリスによるカレー支配の維持は、莫大な費用によって維持・改良された要塞に依存していたといえる。

1558年1月1日土曜日)、フランスの前衛部隊はサンガットフランス語Sangatte)、フレチュン(フランス語:Fréthun)、ニエール(フランス語:Nielles)を攻め落とすと、続く翌2日リスバン砦(fort Risban)を占領し、3日には砲兵がニューレイ砦(fort Nieulay)とリスバン砦に移動した[6]1月7日の午前2時、攻撃に圧倒されたトーマス・ウェントワースThomas Wentworth, 2nd Baron Wentworth)卿は、町の鍵をフランスに渡すことにし[6]、大勢が決した。

数日後、再征服した後背地では、ギューヌ(フランス語:Guînes)とアメス(フランス語:Hames)のイングランド軍の防衛拠点も陥落した。最終的に1月23日、フランス王アンリ2世がカレーに入城した。フランスの支配下に入った[注釈 5]カレーでは国境の画定、耕地や教区(後述する24教区)の再編成、村や教会の再建などがなされた。

この出来事はイングランドに衝撃を以て迎えられ、数ヵ月後、イングランド女王メアリ1世は死の床[注釈 6]で親族にこう言ったという。

When I am dead and cut open, they will find Philip and Calais inscribed on my heart.

和訳すると「私が死んで(その体が)切り開かれたとき、人々は我が心臓にフィリップとカレーの名が刻まれているのを見つけるだろう。」となる。フィリップはメアリの夫でスペイン王フェリペ2世のこと。これはイングランドの共同統治者としての名前である。

再編された教区

1360年のカレー

教区は以下の24区に再編された。

その後

その後、総督であったウェントワースとカレーとギューヌのイングランド人はイギリスに送り返され、カレーはフランス領復帰を記念して「再征服国(フランス語Pays reconquis)」と改名された。この戦いによりフランソワ・ド・ギーズはスペイン軍に反撃できるようになった。夏の間にティオンヴィルアルロンを奪還し、翌1559年カトー・カンブレジ条約が調印された時にもルクセンブルクに侵攻しようとしていた。同条約ではカレーが仏領として認められ両国国境はドーバー海峡で確定した。

この勝利により、アンリ2世は一連の戦いで失った名声を回復することができた。カレーの攻略は、ヨーロッパにサン=カンタンの戦いに匹敵しうるほどの大きな影響を与えた。具体的な渚山として挙げられるのは、アンリ2世の息子(王太子)フランソワ(後のフランソワ2世)とスコットランド女王メアリー・スチュアートとの結婚[8][注釈 7]である。王妃が嗣子なく亡くなった場合、スコットランドはフランスに併合される条項があった。さらにこの結婚は、メアリー・スチュアートがイギリス王位継承権を有していたため、英仏同盟、あるいはそれにあたるものであった。これは、イングランドが覇権争いで常にフランスと無視できないという明確な脅しであった。アンリ2世もメアリーこそ正当なイングランド王位継承権者であると主張し1559年9月にはイングランドとの講和条約締結の後に、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、メアリーがイングランド王位継承権者であることを示す紋章を発表し、エリザベス1世を激怒させたという。

脚注

注釈

  1. ^ カレー包囲戦 (1346年-1347年)参照。
  2. ^ 1468年にイングランド王エドワード4世の妹マーガレット・オブ・ヨークを第3の妻として迎えたほか、ブルゴーニュ戦争ではフランスと相対し、ハプスブルク家を乗っ取って神聖ローマ皇帝に即位せんとしていたといわれている。
  3. ^ 時のフランス王アンリ2世を含むヴァロワ=アングレーム家を傍流とするヴァロワ家は、カペー朝フィリップ3世の4男シャルルが、このピカルディ内の現在エーヌ県オワーズ県にあたる、ヴァロワ(Valois)という地域に封じられヴァロワ伯となったのが始まりである。
  4. ^ なお、この年長引く戦争によりスペインともども破産を宣言していた。
  5. ^ この後ユグノー戦争の間、一時的にスペイン領となる。1598年ヴェルヴァン条約によるユグノー戦争終了に伴って仏領に復帰。
  6. ^ 1558年11月17日[7]卵巣腫瘍により死去。
  7. ^ 1558年4月24日結婚。イングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアから逃れていたメアリーはフランス育ちであった。

出典

  1. ^ Tony Jaques (2007). Dictionary of Battles and Sieges: A-E. Greenwood Publishing Group. p. 184. ISBN 978-0-313-33537-2. https://books.google.com/books?id=3amnMPTPP5MC&pg=PA184 27 April 2013閲覧。 
  2. ^ a b Anna Whitelock, "'Woman, Warrior, Queen': Rethinking Mary and Elizabeth", Tudor Queenship: The Reigns of Mary and Elizabeth, ed. Alice Hunt and Anna Whitelock, (Palgrave Macmillan, 2010), 179.
  3. ^ バンソン、P154。
  4. ^ スチュアート、P229 - P230、プロスペリ、P82、石鍋、P173。
  5. ^ Alain Derville et Albert Vion, Histoire de Calais, Westhoek, 1985.
  6. ^ a b Pays du Nord, no 81.
  7. ^ Mary I queen of England Encyclopædia Britannica
  8. ^ 佐藤、p. 292

参考文献

  • de La Châtre de La Maisonfort, Claude [in フランス語]. Mémoire sur les sièges de Calais et de Thionville.、Abbé Lenglet du Fresnoyによって1744年に出版(『Journal de Henri III』第3巻の冒頭)、J. A. Buchon (1836). Choix de Chroniques et Mémoires sur l'histoire de France. Paris: A. Desrez.に収録
  • デヴィッド・ポッター(David Potter)、« The duc de Guise and the Fall of Calais, 1557-1558 »、The English Historical Review, Oxford University Press、第98巻 1983年7月, p. 481-512 (JSTOR 569781)
  • Romier, Lucien [in フランス語] (1914). Les origines politiques des guerres de religion. Vol. 2, La fin de la magnificence extérieure, le roi contre les protestants (1555-1559). Paris: Perrin.
  • ベルトラン・ハーン『Une paix pour l'éternité : la négociation du Traité de Cateau-Cambrésis』、第四章『Un nouvel équilibre imposé par les armes (1557-1558)』カサ・デ・ベラスケス図書館、2017年、61-71ページ、OpenEdition Books

関連項目

 

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