エルナン・バルコス
エルナン・バルコス(Hernán Barcos, 1984年4月11日 - )は、アルゼンチン・コルドバ州ベル・ビジェ出身の元同国代表サッカー選手。アリアンサ・リマ所属。ポジションはフォワード。 経歴初期クラブ・グアラニー、CDオルメド、レッドスター・ベオグラード、CAウラカンとレンタル選手としてプレーしてきた。 2007年10月7日のFKバナト・ズレニャニン戦では、リーグ初得点を含む2得点を挙げレッドスターの勝ち点3獲得に貢献した。しかし、ラシン・クルブへ戻るも結果を残せなかった。 中国2009年2月に、1年間のレンタルで中国サッカー・スーパーリーグの上海申花足球倶楽部と契約を結んだ[1]。しかし、前半戦は期待外れの結果(14試合3得点)に終わり、再び同リーグの深圳紅鑽足球倶楽部へとレンタルに出された。2009年9月16日の長春亜泰足球倶楽部では、キャリア初となるハットトリックを達成し4-0で勝利した。最終的に14試合14得点を挙げ、同リーグの得点王(17得点)の座に輝いた。 LDUキト2010シーズンチームを去った得点王のクラウディオ・ビエレールの後釜として、2010年初頭に移籍した。開幕から5試合目にして得点を決め、ストライカーとしての地位を確立していくことになる。2010年のレコパ・スダメリカーナ決勝第1戦では、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ相手に重要な2得点を決め2-1で勝利すると、第2戦目を引き分けにし見事タイトル獲得に貢献。この活躍からファンから"El Pirata"の愛称で呼ばれるようになった。リーグ戦では、23得点で得点王になったハイメ・アジョビにあと一歩及ばなかったものの、22得点を挙げ得点ランク2位になり、チームをセリエA優勝に導いた。 2011シーズンこのシーズンのバルコスは、全大会で51試合25得点を記録した。2011年8月11日のマンタFC戦でクラブの選手達が様々な大会含めて達成出来なかった1試合で5得点を叩き込んだ。さらに、その得点力を示すようにコパ・スダメリカーナでは7得点を記録。準決勝のCAベレス・サルスフィエルド戦ではホームで2得点を決めると、続きアウェーでは1得点を決めクラブ史上初のブエノスアイレスでの勝利に貢献し、決勝へと駒を進めた。得点力を見せつけていたバルコスだが、決勝のウニベルシダ・デ・チレ戦では1得点も決められず敗退。結果、チームとしても個人としてもトロフィーを逃し2位に終わった。キトでの残りの試合は、クラブのファンから支持と評価を得た。ここで在籍して2年過ぎた後、様々な裕福なクラブからオファーが舞い込んだ。2012年1月にクラブへバルコス獲得のため、中東のクラブから800万ドルのオファーとSEパルメイラスから350万ドルのオファーが同時に来た。クラブは借金に苦しんでいたものの、バルコスの願いを聞き入れ、そして、2012年1月17日にバルコスはパルメイラスと契約を結んだ。 パルメイラス2012年1月17日にブラジル全国選手権のSEパルメイラスと契約したことが確認された[2]。1月22日に3-0で勝利したサンパウロ州選手権・イトゥアーノFC戦で移籍後初得点を決めた[3]。その後バルコスはこのシーズンで合計27得点決めることを自身に課し、そこからカウントダウンが始まった。それに対しルイス・フェリペ・スコラーリ監督は、それを冗談と受け取り、もし達成したらシュラスコを奢ることを約束した[4]。コパ・ド・ブラジルで8試合4得点を決め優勝に貢献すると、8月1日のコパ・スダメリカーナでは、初戦のボタフォゴFRで2得点を挙げた。現在、9月29日のリーグ戦AAポンチ・プレッタ戦で2得点を決め合計23得点を記録している[5]。 スポルティングCP2016年2月1日、フレディ・モンテーロとのトレードでスポルティングCPへ加入[6]。同年後半はCAベレス・サルスフィエルドでプレーした[7]。 翌年1月にはアトレティコ・ナシオナルへの移籍交渉が進んでいたが破談となり、LDUキトへローンで復帰した[8]。 代表2012年8月23日に2014 FIFAワールドカップ・南米予選のパラグアイ代表戦とペルー代表戦に向け、アレハンドロ・サベーラ監督によって招集された[9]が、試合に出場することはなかった。代わりに、9月19日のブラジル代表とのスーペルクラシコ・デ・ラス・アメリカスで先発出場し、アルゼンチン代表デビューを果たした。 エピソード2012年2月16日、ヘジ・グローボのジャーナリストであるレオ・ビアンシにブラジル人歌手ゼ・ラマーリョとの比較がされた後、それを嫌がったバルコスはビアンシに対して、"boludo"(ポルトガル語で "お尻")と呼んだ[10]。 タイトルクラブ
個人
脚注
外部リンク
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