エルコレ1世・デステ
エルコレ1世・デステ (Ercole I d'Este, 1431年10月26日 - 1505年1月25日)は、モデナ=レッジョ公、フェラーラ公。 生涯ニッコロ3世・デステと3度目の妃リッチャルダ・ダ・サルッツォ(サルッツォ侯トンマーゾ3世の娘)の子として生まれた。彼はのちに、ノース・ウインド・アンド・ザ・ダイアモンド(北風とダイアモンド)とのあだ名をつけられた。[1]1445年から15年間、ナポリ王アルフォンゾの宮廷で教育を受けた。彼がルネサンス期の芸術の庇護者として知られるようになるのは、この時期の素養があるためと見られている。 異母兄ボルソ・デステには正妻も子もないため、後継者に指名されており、1471年に公位を継承した。1473年、エレオノーラ・ダラゴーナ(ナポリ王フェルディナンド1世の娘)と結婚。エステ家とナポリ王国との同盟が強固なものとなった。2人の間には6子が生まれた。
また、2人の庶子がいた。
1482年から1484年まで、彼は宿敵デッラ・ローヴェレ家のローマ教皇シクストゥス4世と同盟したヴェネツィア共和国と戦った。これはフェラーラ戦争(1482年 - 1484年)と呼ばれた。エルコレはバニョロの和議で戦いを終わらせ、フェラーラは教皇軍の情け容赦ない破壊の運命から逃れた。このため、1494年から1498年のイタリア戦争において、エルコレは中立を決め込み、教皇国との友好関係に努めた。彼は嫡子アルフォンソの妻にルクレツィア・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の娘)を迎えることに成功し、この結婚はおびただしい領土の寄進をもたらした。 エルコレがフランス系フランドル人の音楽家を大勢招聘したため、フェラーラは当代随一の音楽の都となった。アレクサンダー・アグリコラ、ヤーコプ・オブレヒト、ハインリヒ・イザーク、アドリアン・ヴィラールト、ジョスカン・デ・プレらが知られる。彼は詩人ボイアールドを家臣とし、若い詩人ルドヴィーコ・アリオストに家令をさせた。市の城壁を建築家ビアジオ・ロセッティに命じて拡張させた。フェラーラの著名な建築物の多くは、エルコレの治世下につくられたものである。 エルコレは教会改革者ジローラモ・サヴォナローラの熱心な賞賛者であった。サヴォナローラはエルコレの霊的・政治的助言者となった。1490年代から2人の間には多くの書簡が交わされ、エルコレはフィレンツェの教会関係者に宛ててサヴォナローラを解放するよう働きかけている。しかしそれもむなしく、サヴォナローラは1498年に処刑された。 脚注
関連項目
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