ネーターはエルランゲンに戻った。彼女は正式に1904年10月24日に大学に再び入学し、数学を専門的に学ぶ意向を宣言した。パウル・ゴルダン(英語版) (Paul Gordan) の指導の下、彼女は論文 Über die Bildung des Formensystems der ternären biquadratischen Form(三項四次形式の不変式の完全系に関して、1907)を書いた。評判は高かったが、ネーターは後にその論文を "crap" と評している[22][23][24]。
次の7年間 (1908–15) 彼女は University of Erlangen's Mathematical Institute で無給で、ときには父の体調が悪く講義できないときに代わりとして、教えた。1910年と1911年に彼女は 3 変数から n 変数への彼女の学位論文の仕事の拡張を出版した。
1915年の春、ネーターはダヴィット・ヒルベルト (David Hilbert) とフェリックス・クライン (Felix Klein) によってゲッチンゲン大学に戻るよう招待された。しかしながら、彼女を入れる彼らの努力は哲学部の文献学者と歴史家によって妨げられた。女性は、彼らが主張したことには、私講師 (Privatdozent) になるべきではなかった。教授の一人は主張した。"What will our soldiers think when they return to the university and find that they are required to learn at the feet of a woman?"[28][29][30][31](軍人が大学に戻ってきて女性のもとで学ばなければならないと知ったときどう思うだろうか?)ヒルベルトは憤慨して答えた。"I do not see that the sex of the candidate is an argument against her admission as privatdozent. After all, we are a university, not a bath house."[28][29][30][31](候補者の性別が彼女が私講師になることに反対する理由であることが分からない。とにかくここは大学であって公衆浴場ではない。)
彼女がゲッチンゲンで教えた最初の一年間は公的な身分ではなく給料は支払われなかった。彼女の家族が彼女の room and board を支払い、彼女の大学の仕事を支えた。彼女の講義はしばしばヒルベルトの名前で通知され、ネーターは「手伝い」だった。
しかしながら、彼女はゲッチンゲンに着いてすぐあと、今ではネーターの定理と呼ばれる定理を証明して能力を示した。この定理は保存則が物理系の任意の微分可能な対称性に伴うことを示す[30][31]。アメリカの物理学者レオン・M・レーダーマン (Leon M. Lederman) とクリストファー・T・ヒル(英語版) (Christopher T. Hill) は彼らの本 Symmetry and the Beautiful Universe でネーターの定理は "certainly one of the most important mathematical theorems ever proved in guiding the development of modern physics, possibly on a par with the Pythagorean theorem"(現代物理学の発展を先導するこれまでに証明された中で確かに最も重要な数学の定理の1つであり、もしかしたらピタゴラスの定理に比肩する)と論じている[7]。
3年後彼女はPrussian Minister for Science, Art, and Public Education から手紙を受け取った。彼はその手紙で彼女に nicht beamteter ausserordentlicher Professor (an untenured professor with limited internal administrative rights and functions[33]) の肩書きを授与した。これは無給の「異常な」教授の職であり、公務員であるより高い「通常の」教授職ではなかった。それは彼女の仕事の重要性を認めてはいたが、相変わらず給与は無かった。ネーターは一年後 Lehrbeauftragte für Algebra の特別職に任命されるまで講義の給与を支払われなかった[34][35][36]。
抽象代数学における影響力の大きい仕事
ネーターの定理は物理学に深遠な影響を与えたが、数学者として彼女は抽象代数学への影響力の大きい貢献で最もよく知られている。Nathan Jacobson(英語版) はネーターの Collected Papers への Introduction において、"The development of abstract algebra, which is one of the most distinctive innovations of twentieth century mathematics, is largely due to her – in published papers, in lectures, and in personal influence on her contemporaries." と書いた[37]。
ネーターの代数学への着工は1920年に始まった。それから W. Schmeidler と共同でイデアルの理論(英語版)についての論文を出版し、環の左および右イデアルを定義した。翌年彼女は Idealtheorie in Ringbereichen と呼ばれる landmark paper を出版し、イデアルの昇鎖条件を解析した。著名な代数学者アーヴィング・キャプランスキー(英語版) (Irving Kaplansky) はこの仕事を "revolutionary" と呼んだ[38]。その出版は用語「ネーター環」やいくつかの他のネーターの名のつく数学的対象を生んだ[38][39][40]。
1924年若いオランダの数学者B. L. van der Waerdenはゲッチンゲン大学に到着した。彼はすぐに抽象的概念化の計り知れない手法を提供するネーターと一緒に働き始めた。ファン・デル・ヴェルデンは後に彼女の独創性は "absolute beyond comparison"(比較を超えて絶対的)だと言った[41]。1931年彼は Moderne Algebra というその分野で中心的な教科書を出版した。その第二巻はネーターの仕事から多くを借りている。ネーターは認められることを求めていたわけではなかったが、第7版で note として "based in part on lectures by E. Artin and E. Noether" を含めた[42][43][44]。彼女はときどき同僚や生徒に彼女のアイデアの名誉を受け取ることを許可し、彼女自身を犠牲にして彼らが経歴を発達させることを助けた[44][45]。
ファン・デル・ヴェルデンの訪問は数学と物理学の研究の主要なハブとなったゲッチンゲンへと世界中から数学者が集まることの一部だった。1926年から1930年までロシア人位相幾何学者パヴェル・アレクサンドロフ (Pavel Alexandrov) はゲッチンゲン大学で講義し、彼とネーターはすぐに良い友達になった。彼は彼女を、彼の尊敬を示すための愛称の言葉としてドイツ語の男性冠詞を用いて、der Noether と呼び始めた。彼女は彼がゲッチンゲンで正規の教授としての職を得るよう話を取りつけようとしたが、ロックフェラー財団から奨学金を確保するのを助けることができただけだった[46][47]。彼らは定期的に会い、代数学と位相幾何学の交差についての議論を楽しんだ。アレクサンドロフは1935年の追悼演説においてエミー・ネーターを "the greatest woman mathematician of all time" と名付けた[48]。
ネーターは数学的洞察力に加え他者への配慮でも尊敬された。彼女は意見の合わない人に無礼に振る舞うことがときどきあったが、それにもかかわらず不変の助けと新しい学生の辛抱強い手引きの評判を得た。数学の正確さに対する彼女の忠誠心によってある同僚は彼女を "a severe critic"(厳格な評論家)と名付けたが、彼女はこの要求を教育の態度と結びつけた[51]。ある同僚は後に彼女を次のように記述した:"Completely unegotistical and free of vanity, she never claimed anything for herself, but promoted the works of her students above all."[52](彼女はうぬぼれや虚栄心が全くなく、彼女自身について何かを主張したことは一度もなかったが、とりわけ彼女の生徒の仕事を促進した。)
最初の彼女の質素な生活スタイルは仕事の給与を拒否されていたのが原因であるが、大学が1923年に少しの給料を支払うようになった後でさえ、質素で地味な生活を続けた。彼女の人生で後により気前よく支払われたが、甥のゴットフリート・E・ネーター(英語版) (Gottfried E. Noether) に遺贈するために給料の半分を貯金した[53]。
外見や立ち居振る舞いにはほとんど無関心で伝記作家は彼女は彼女の研究に焦点を当てたと提唱する。名高い代数学者 Olga Taussky-Todd(英語版) は次のような昼食を記述した。その昼食でネーターは、数学の議論に完全に没頭して、食べる時に "gesticulated wildly"(しきりにジェスチャーを交え)、"spilled her food constantly and wiped it off from her dress, completely unperturbed"(絶えず食べものをこぼし、彼女の服で拭き、全く動じなかった)[54] 。外見を意識する学生は、彼女がブラウスからハンカチを回収し講義の間髪がどんどん乱れるのを無視することに畏縮した。2人の女性学生はある時彼女に2時間の授業の休憩中に彼女らの懸念を伝えるために近づいたが、彼女らは彼女が他の学生たちとしていた精力的な数学の議論を打ち破ることはできなかった[55]。
彼女は似た思考を持つ同僚や学生の輪を強固にし,そうでない人たちを除外する傾向にあった.時折ネーターの講義を訪れた「部外者」は通常教室で30分だけ過ごすと苛立ったり混乱したりして去った.ある正規生は1つのそのような例を言った:"The enemy has been defeated; he has cleared out."[59](敵は敗れた,彼は出て行った.)
ネーターはモスクワに帰ることを計画し,アレクサンドロフから支援を受けた.1933年に彼女がドイツを去った後彼は Soviet Education Ministry(英語版) を通して Moscow State University で彼女が職を得られるよう手伝った.この努力は実らなかったが,彼らは1930年代の間頻繁に文通し,1935年に彼女はソヴィエト連邦に帰る計画を立てた[65].その間彼女の弟フリッツ(英語版)は,ドイツで職を失った後,ロシアの Siberian Federal District のトムスクの Research Institute for Mathematics and Mechanics で職を得た[66][67].
表彰
1932年,エミー・ネーターとエミル・アルチン (Emil Artin) は数学への貢献でアッケルマン・トイブナー記念賞(英語版)を受賞した[68].賞は 500 ライヒスマルクの金銭的報酬があり,彼女の相当な仕事の長年の懸案だった公式の承認として見られた.それにもかかわらず,彼女の同僚は彼女がゲッチンゲン科学アカデミー(英語版) (Gesellschaft der Wissenschaften) に選ばれず Ordentlicher Professor (full professor) の職に決して昇進されなかった事実にいらだちを表した[69][70][33].
ネーターの同僚は1932年の彼女の50回目の誕生日を典型的な数学者の様式で祝った.ヘルムート・ハッセ (Helmut Hasse) は Mathematische Annalen で彼女に論文を捧げ,そこで彼は非可換相互法則を証明することによって非可換環論のある面は可換環論のそれよりも単純であるという彼女の感づきを立証した[71].これは彼女を非常に喜ばせた.彼はまた彼女に数学的なぞなぞ,"mμν-riddle of syllables", を送り,彼女はそれを直ちに解いたが,そのなぞなぞは失われている[69][70].
アドルフ・ヒトラー (Adolf Hitler) が1933年1月にドイツの首相 (Reichskanzler) になった時,国の周りのナチの活動は劇的に増加した.ゲッチンゲン大学では the German Student Association はユダヤ人に帰せられる "un-German spirit" への攻撃を導きネーターの以前の学生の私講師 Werner Weber によって援助された.反ユダヤ主義的な考えはユダヤ人教授に過酷な状況をもたらした.一人の若い抗議する人は伝えられるところによれば次のように要求した:"Aryan students want Aryan mathematics and not Jewish mathematics."[73]
ヒトラー政権の最初の行動の1つは,ユダヤ人を追い出し,第一次世界大戦で仕えて「ドイツへの忠誠を証明」していない限り(大学教授を含む)政府の被雇用者に彼らの仕事から嫌疑を掛けた the Law for the Restoration of the Professional Civil Service(英語版) であった.1933年4月ネーターは the Prussian Ministry for Sciences, Art, and Public Education から次のような通知を受け取った:"On the basis of paragraph 3 of the Civil Service Code of 7 April 1933, I hereby withdraw from you the right to teach at the University of Göttingen"[74][75](1993年4月7日の Civil Service Code の第三段落に基づいて,私はこれによってゲッチンゲン大学で教える権利をあなたから取り上げる).ネーターの同僚の何人か,例えばマックス・ボルン (Max Born) やリヒャルト・クーラント (Richard Courant) もまた職を取り消された[74][75].ネーターは決定を冷静に受け入れ,この困難な時代に他の人の援助をした.ヘルマン・ヴァイル (Hermann Weyl) は後に次のように書いた:"Emmy Noether—her courage, her frankness, her unconcern about her own fate, her conciliatory spirit—was in the midst of all the hatred and meanness, despair and sorrow surrounding us, a moral solace."[73](エミー・ネーター――彼女の勇気,彼女の率直さ,彼女の彼女自身の運命への無関心,彼女の懐柔的精神――は,私たちを取り巻くすべての憎しみと卑しさ,絶望と悲しみの真っただ中で,道徳的慰めであった.)例によってネーターは数学に集中し続け,類体論を議論するために彼女のアパートに学生を集めた.彼女の学生の一人がナチの準軍事組織の突撃隊 (Sturmabteilung, SA) の制服で現れた時,彼女は全く動揺を見せず,伝えられるところによれば,後にそのことについて笑いさえした[74][75].
ブリンマーでネーターは アンナ・ホイーラー(英語版) (Anna Wheeler) と出会い友達になった。ホイーラーはネーターがゲッチンゲンに着く直前にそこで研究していた。大学での別の支援源はブリンマーの学長の Marion Edwards Park であった。彼は "see Dr. Noether in action!" ためにその場所に数学者を情熱的に招いた[78][79]。ネーターと、学生の小さいチームは、ファン・デル・ヴェルデンの1930年の本 Moderne Algebra I とエリッヒ・ヘッケ(英語版) (Erich Hecke) の Theorie der algebraischen Zahlen(代数的数の理論)にすぐにとりくんだ[80]。
1934年,ネーターは,エイブラハム・フレクスナー (Abraham Flexner) とオズワルド・ヴェブレン (Oswald Veblen) の招待により,プリンストン高級研究所で講義を始めた.彼女はまたエイブラハム・アルバート(英語版) (Abraham Adrian Albert) とハリー・ヴァンディヴァー(英語版) (Harry Vandiver) とともに研究し彼らを指導した[81].しかしながら,彼女はプリンストン大学について "men's university, where nothing female is admitted" では歓迎されなかったと述べた[82].
ネーターの死の数日後、彼女の友人とブリンマーの同僚は College President Park の家で小さな追悼式を行った。ヘルマン・ヴァイルとリチャード・ブラウアー(英語版)はプリンストンから来て、ホイーラーとタウスキーとともに今はなき同僚について話した。その後数か月、世界中から賛辞の文書が送られ始めた。アルベルト・アインシュタイン[88]はヴァン・デル・ヴェルデン、ヴァイル、パヴェル・アレクサンドロフとともに敬意を表した。彼女は火葬され、遺灰は Bryn Mawr の M. Carey Thomas Library の回廊のまわりの歩道の下に埋葬された[89]。
環は同様に元の集合と、今度は2つの演算からなる。1つめの演算により集合は群になり、2つ目の演算は結合的かつ1つ目の演算に対し分配的である。2つ目の可換であってもなくてもよい。可換であるとは、第一の元と第二の元に演算を施しても第二の元と第一の元に演算を施しても同じ結果になる、つまり元の順序が問題にならないということである。0 でないすべての元 a が乗法逆元(ax = xa = 1 なる元 x)をもつとき、環は可除環と呼ばれる。(可換)体は可換な可除環として定義される。
The maxim by which Emmy Noether was guided throughout her work might be formulated as follows: "Any relationships between numbers, functions, and operations become transparent, generally applicable, and fully productive only after they have been isolated from their particular objects and been formulated as universally valid concepts."(訳文: エミー・ネーターが彼女の仕事を通じて従った格言を以下のようにまとめることができるだろう:「数や函数および算法の間に成り立つ任意の関係性は、それら特定の対象から離れて、普遍的に有効な概念として定式化されてさえしまえば、透過的で一般に適用可能であって完全に生産的である。」)
整数の全体は可換環をなす。元は整数で、演算は通常の加法と乗法である。任意の2つの整数を足したり掛けたりでき、その結果は整数である。第一の演算、加法は、可換である、すなわち、環の任意の元 a, b に対し、a + b = b + a である。第二の演算、乗法も、可換である。しかしこれは他の環では正しい必要はない、つまり、a に b を掛けたものは b に a を掛けたものと異なるかもしれない。非可換環の例には行列や四元数がある。整数は可除環をなさない、なぜならば第二の演算は必ずしも逆にできないからであり、例えば、3 × a = 1 なる整数 a は存在しない。
ネーターの経歴の第一の時代における研究の多くは不変式論(英語版)、主に代数的不変式論(英語版)、と関係している。不変式論は変換の群の下で変わらないままの(不変な)式に関心がある。日常的な例としては、固いものさしを回転すると、その端点の座標 (x1, y1, z1) と (x2, y2, z2) は変わるが、公式 L2 = Δx2 + Δy2 + Δz2 によって与えられるその長さ L は同じままである。不変式論は19世紀後半の研究の活発な領域であり、1つにはフェリックス・クライン (Felix Klein) のエルランゲン・プログラムによって駆り立てられた。それによると、異なるタイプの幾何学は変換の下での不変量、例えば射影幾何学の複比、によって特徴づけられるべきである。不変量のarchetypal(英語版)な例は二変数に次形式 Ax2 + Bxy + Cy2 の判別式B2 − 4AC である。これが不変量と呼ばれるのは、線型な置き換え x→ax + by, y→cx + dy で行列式 ad − bc が 1 であるものによって変わらないからである。このような変換の全体は特殊線型群SL2 をなす。(すべての可逆な線型変換からなる一般線型群のもとで不変な量は(0 を除いて)存在しない、なぜならばこれらの変換はスケール因子を掛けることを含むからである。救済策として、古典的な不変式論はスケール因子の違いを除いて不変な形式である相対不変量も考えた。)SL2 の作用によって変わらない A, B, C のすべての多項式を求めることができる。これらは二変数二次形式の不変量と呼ばれ、判別式の多項式であることが分かる。より一般に、高次の斉次多項式A0xry0 + ... + Arx0yr の不変量を求めることができる。それは A0, ..., Ar を係数とするある多項式である。さらに一般に、2つよりも多い変数の斉次多項式に対して同様の問いをたてることができる。
不変式論の主な目標の1つは "finite basis problem" を解くことだった。任意の2つの不変量の和や積は不変量であり、finite basis problem はすべての不変量は生成元と呼ばれる有限個の不変量のリストから始めて得ることができるかどうかを問うた。例えば、判別式は二元二次形式の不変量の(1つの元からなる) finite basis を与える。ネーターの指導教官パウル・ゴルダン (Paul Gordan) は「不変式論の王」("king of invariant theory") として知られていて、彼の数学への主要な貢献は1870年に2変数の斉次多項式の不変式に対して finite basis problem を解いたことだった[97][98]。彼はこれをすべての不変式とそれらの生成元を見つける構成的な方法を与えることによって証明したが、3変数あるいはそれより多い変数のときにこの構成的なアプローチを遂行することは出来なかった。1890年、ダフィット・ヒルベルト (David Hilbert) は任意個の変数の斉次多項式の不変式に対する同様の主張を証明した[99][100]。さらに、彼の手法は、特殊線型群だけでなく、特殊直交群のような部分群のいくつかに対しても有効なものであった[101]。彼の最初の証明はいくらか論争を引き起こした、なぜならば生成元を構成する手法を与えていなかったからである、しかしながら後の研究によって彼は彼の手法を構成的にした。ネーターは学位論文でゴルダンの計算的証明を3変数の斉次多項式に拡張した。ネーターの構成的なアプローチにより不変式の間の関係を研究することができるようになった。後に、彼女がより抽象的な手法に転換した後、ネーターは彼女の論文を Mist (がらくた) and Formelngestrüpp (方程式のジャングル) と呼んだ。
ガロワ理論
ガロワ理論は方程式の根を置換する数体の変換と関係する。変数 x の n次の多項式方程式を考えよう。係数はある基礎体(英語版)からとられる。例えば、実数体とか、有理数体、7 を法とした整数、など。この多項式の値が 0 になるような x はあるかもしれないしないかもしれない。もし存在すれば、それは根と呼ばれる。多項式が x2 + 1 で体が実数体ならば、多項式は根を持たない、なぜならば x をどのようにとっても多項式の値は 1 以上になるからである。しかしながら、体が拡大されると、多項式は根を持ち得、十分に拡大されれば、必ず次数に等しい個数の根を持つ。前の例を続ければ、体が複素数体に拡大されれば、多項式は 2 つの根 i と −i を得る。ここに i は虚数単位、すなわち、i 2 = −1 を満たす数である。より一般に、多項式が根に分解するような拡大体を多項式の分解体と呼ぶ。
多項式のガロワ群は分解体の変換であって基礎体と多項式の根を保つようなものすべてからなる集合である。(数学用語ではこれらの変換は自己同型と呼ばれる。)x2 + 1 のガロワ群は2つの元からなる。すべての複素数を自分自身に送る恒等変換と、i を −i に送る複素共役写像である。ガロワ群は基礎体を変えないから、多項式の係数は変わらないままであり、したがってすべての根の集合も変わらないままである。しかしながら各根が別の根に動くことは出来、したがって変換は n 個の根のその中での入れ替わりを決定する。ガロワ理論の重要性はガロワ理論の基本定理から生ずる。これは基礎体と分解体の間にある体たちはガロワ群の部分群たちと一対一に対応しているというものである。
1918年、ネーターは逆ガロワ問題(英語版)に関する影響力の大きい論文を出版した[102]。与えられた体とその拡大の変換のガロワ群を決定する代わりに、ネーターは、体と群が与えられたとき、その体の拡大であって与えられた群をガロワ群として持つものを見つけることが常に可能かどうかを問うた。彼女はこれを「ネーターの問題」に帰着した。これは体 k(x1, ... , xn) に作用する置換群Sn の部分群 G の固定体が常に体 k の純超越拡大になるかを問うものである。(彼女は1913年の論文で最初にこの問題を述べた[103]。彼女はその問題を同僚のフィッシャー(英語版)によるものとしている。)彼女はこれが n = 2, 3, 4 に対し正しいことを示した。1969年、R. G. Swan(英語版) は n = 47 と G が位数 47 の巡回群のときにネーターの問題の反例を見つけた[104](この群は他の方法で有理数体上のガロワ群として実現できるのであるが)。逆ガロワ問題は今なお解かれていない[105]。
彼女の仕事を受けてアインシュタインはヒルベルトに書いた:"Yesterday I received from Miss Noether a very interesting paper on invariants. I'm impressed that such things can be understood in such a general way. The old guard at Göttingen should take some lessons from Miss Noether! She seems to know her stuff."[107](訳:昨日私はネーター氏から不変量に関する非常に興味深い論文を受け取りました。私はそのようなことがそのように一般的な方法で理解できるということに感銘を受けています。ゲッチンゲンの保守派はネーター氏の講義を受けるべきです! 彼女は自分の素質を分かっているようです。)
鎖はある n が存在してすべての m ≥ n に対して An = Am となるようなとき有限個のステップの後停留的になるという。与えられた集合の部分集合の集まりが昇鎖条件を満たすとは、任意の昇鎖列が有限個のステップの後停留的になることをいう。降鎖条件を満たすとは任意の降鎖列が有限個のステップの後停留的になることをいう。
そのような鎖条件の別の応用は、数学的帰納法の一般化であるネーター帰納法(整礎帰納法とも呼ばれる)にある。それはしばしば対象の集まりについての一般的なステートメントをその集まりの特定の対象についてのステートメントに帰着するために使われる。S を半順序集合としよう。S の対象についての主張を証明する1つの方法は反例の存在を仮定し矛盾を導くことによってもとの主張の対偶を証明することである。ネーター帰納法の基本的な前提は S の任意の空でない部分集合は極小元を持つことである。特に、すべての反例の集合は極小元、極小の反例を含む。したがって、もとの主張を証明するためには、表面上はるかに弱い何か:任意の反例に対してより小さい反例が存在することを証明すれば十分である。
可換環、イデアル、加群
ネーターの論文 Idealtheorie in Ringbereichen (Theory of Ideals in Ring Domains, 1921),[109] は一般の可換環論の基礎であり、可換環の最初の一般的な定義の1つを与えている[110]。彼女の論文以前は、可換代数のほとんどの結果は体上の多項式環や代数的整数の環のような可換環の特別な例に制限されていた。ネーターはイデアルの昇鎖条件を満たす環ではすべてのイデアルが有限生成であることを証明した。1943年、フランス人数学者クロード・シュヴァレー (Claude Chevalley) はこの性質を記述するためにネーター環という用語を提唱した[110]。ネーターの1921年の主要な結果はラスカー・ネーターの定理である。これは多項式環のイデアルの準素分解に関するラスカーの定理をすべてのネーター環に拡張するものである。ラスカー・ネーターの定理は任意の正整数は素数の積として表すことができその分解は一意的であるという算術の基本定理の一般化と見ることができる。
ネーターの仕事 Abstrakter Aufbau der Idealtheorie in algebraischen Zahl- und Funktionenkörpern (代数的数におけるイデアル論の抽象的構造と関数体, 1927)[111]は任意のイデアルが素イデアルへの一意的な分解を持つような環をデデキント整域、すなわちネーターかつ 0 または 1 次元かつ商体において整閉であるような整域として特徴づけた。この論文はまた今では同型定理と呼ばれるもの、これはある基本的な自然同型を記述するものである、やネーター加群やアルティン加群に関するいくつかの他の基本的な結果も含んでいる。
除去理論
1923年から24年、ネーターは彼女のイデアル論を除去理論(英語版)に適用し(彼女が彼女の学生 Kurt Hentzelt に帰した定式化において)、多項式の因数分解についての基本定理を直接持ち越すことができることを示した[112][113][114]。伝統的に、除去理論は多項式方程式の系から1つあるいはそれ以上の変数を、通常は終結式の手法によって、除去することに関心がある。説明のため、方程式系はしばしば(変数 x を忘れた)行列 M 掛ける(x の異なる冪のみを持つ)ベクトル v イコール零ベクトル、M•v = 0, の形に書ける。したがって、行列 M の行列式は 0 でなければならず、変数 x が除去される新しい方程式を得る。
ネーターは初期の組合せ位相幾何学(英語版)からの代数的位相幾何学の発展を導く基本的アイデア、特にホモロジー群の概念の草分けであるとされる[121]。アレクサンドロフの記すところによれば、1926年と1927年の夏にネーターはハインツ・ホップ(英語版)とアレクサンドロフの開いた講義に出席し、そこで "she continually made observations which were often deep and subtle"(「彼女は続けざまにしばしば深くまた絶妙であった観察を成した」)[122]という。またアレクサンドロフはこう続ける:
When... she first became acquainted with a systematic construction of combinatorial topology, she immediately observed that it would be worthwhile to study directly the group of algebraic complexes and cycles of a given polyhedron and the subgroup of the cycle group consisting of cycles homologous to zero; instead of the usual definition of Betti numbers, she suggested immediately defining the Betti group as the complementary (quotient) group of the group of all cycles by the subgroup of cycles homologous to zero. This observation now seems self-evident. But in those years (1925–28) this was a completely new point of view.[123](訳: 彼女が組合せ位相幾何学の体系的構成に初めて触れることになったとき…、代数的複体および与えられた多面体の輪体の成す群、および零ホモローグな輪体からなる輪体群の部分群を、直接的に調べることに価値があるだろうことを、彼女は直ちに見抜いた。ベッチ数の通常の定義の代わりに、ベッチ群をすべての輪体の成す群を零ホモローグな輪体の成す部分群による補群(商群)として定義することを直ちに示唆したのである。この視座は現在では自明のことだが、1925–28年当時にしてみればこれは完全に新たな観点であった。)
位相幾何学を代数的に研究するというネーターの示唆は、ホップやアレクサンドロフらによって直ちに受け入れられ[123]、ゲッチンゲンの数学者たちの間の議題として頻繁に挙がるようになっていった[124]。ネーターは、自身の考えたベッチ群の概念が、オイラー–ポワンカレの公式の理解をより容易にすることを見、ホップはこの主題についての自身の仕事[125]を "bears the imprint of these remarks of Emmy Noether"[126](「エミー・ネーターのこれらの注意の刷り込みに負う」)としている。ネーターが自身の位相幾何学のアイデアについて言及したのは、1926年の出版物[127]の中で余談として、群論の応用の一つとしてそれを引用した[128]のみである。
ネーター、ヘルムート・ハッセ、リチャード・ブラウアー(英語版)による影響力の大きい論文に、除法が可能な代数系である可除多元環を扱ったものがある[133]。彼らは次の2つの重要な定理を証明した。局所大域定理――数体上の有限次元中心可除代数がいたるところ局所的に分解するならば大域的にも分解する(したがって自明である)――を証明し、これから次の Hauptsatz(「主定理」)を演繹した:代数体 F 上の任意の有限次元中心可除代数は巡回円分拡大上分解する。これらの定理によって与えられた数体上のすべての有限次元中心可除代数を分類することができる。それに続くネーターの論文は、より一般的な定理の特別な場合として、可除代数 D のすべての極大部分体は分解体であることを示した[134]。この論文はスコレム・ネーターの定理(英語版)も含んでいる。この定理は、体 k の拡大の k 上の有限次元中心単純代数への任意の2つの埋め込みは共役であるというものである。ブラウアー・ネーターの定理(英語版)[135]は体上の中心可除代数の分解体の特徴づけを与える。
In the judgment of the most competent living mathematicians, Fräulein Noether was the most significant creative mathematical genius thus far produced since the higher education of women began. In the realm of algebra, in which the most gifted mathematicians have been busy for centuries, she discovered methods which have proved of enormous importance in the development of the present-day younger generation of mathematicians.
存命中の最も著名な数学者たちの判断によれば、フロイライン・ネーターは、女性への高度な教育が始まって以来、最も重要な、創造力に富んだ数学の天才だ。数世紀の間、代数学という分野は、数学の天才たちの多忙するところであった。彼女は、現在の若い世代の数学者を育成することの重要性を証明したのである。
Miss Noether is... the greatest woman mathematician who has ever lived; and the greatest woman scientist of any sort now living, and a scholar at least on the plane of Madame Curie.
ネーター氏は……今までにない最も偉大な女性数学者であり、存命中の方の中で最も偉大な女性科学者であり、少なくともキュリー夫人の水準の学者である。
1992年にバル=イラン大学とドイツ政府とミネルヴァ基金(英語版)は、代数幾何、群論、複素関数論等分野の研究を活発化させ、またドイツとイスラエルの協力を強めることを目的として、バル=イラン大学数理・コンピューター科学科にエミー・ネーター数学研究所を設立した。主たる研究分野は上記の通りである。エミー・ネーター数学研究所は、ヨーロッパ数学研究センター(European Research Centers of Mathematics)のメンバーでもある[150]。
ランサム・スティーブンズ(英語版)による作品"The God Patent"に登場する物理学博士エミー・ナッター(Emmy Nutter)は、エミー・ネーターに由来する[151]。
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