エミリア=ロマーニャ州
エミリア=ロマーニャ州(エミリア=ロマーニャしゅう、イタリア語: Emilia-Romagna)は、イタリア共和国北東部に位置する州。州都はボローニャ[3]。 ヨーロッパの中で最も豊かな地域の一つであり、一人当たりGDPはイタリア共和国で3番目に高い[4]。ボローニャをはじめ、モデナ、パルマ、フェラーラといったルネサンス都市が所在し、文化・観光の中心地である。食品産業が盛んで、パルミジャーノ・レッジャーノやバルサミコ酢、パルマハムやボローニャソーセージなどの産地である。また、フェラーリやランボルギーニなどが本社を置く自動車産業の中心地でもある。 名称標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。 州名は、州西部から中部にかけての「エミリア地方」と州東南部「ロマーニャ地方」を結んだものである。ロマーニャ地方はラヴェンナ県、フォルリ=チェゼーナ県、リミニ県一帯を指す。 「エミリア」地方は、古代ローマ時代に北イタリアの主要街道であったエミリア街道(Via Æmilia)にちなむ。ピアチェンツァとリミニを結ぶ(リミニでフラミニア街道に接続しローマに至る)エミリア街道の名は、建設当時の執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥスの名にちなんでいる[5]。「ロマーニャ」地方は、Romània という語から派生したもので、中世初期に東ローマ帝国がラヴェンナを中心としてこの地を支配したことによる。 地理位置・広がりイタリア共和国北東部の州で、イタリア半島のつけ根に位置する。南のアペニン山脈、北のポー川に挟まれた地域で、東はアドリア海に面する。 州都ボローニャは、フィレンツェから北へ81km、ヴェネツィアから南西へ130km、アンコーナから北西へ200km、ミラノから南東へ201km、首都ローマから西北西へ306kmの距離にある[6]。 隣接する州および国は以下の通り。 地勢ポー川流域に位置し、ポー平原が広がる。トスカーナ州を跨ぐ地域にはアペニン山脈がそびえ、一帯は2015年にユネスコの生物圏保護区に指定された[7]。 主要な都市人口10万人以上のコムーネは以下の通り。人口は2012年1月1日現在[2]。
歴史古代ローマ時代以前、この地はエトルリア人やガリア人(ボイイ族など)の領域の一部であった。現在のボローニャ(エトルリア人の都市でフェルシナと呼ばれた)や、ラヴェンナ(アドリア海沿いにあった潟湖上に築かれた)などは、ローマ以前に起源を有する都市である。ローマ人はガリア人が暮らす北部イタリアを「ガリア」と呼び、ポー川(ラテン語ではパドゥス川(Padus))の南側の地域を「ポー川の手前のガリア」を意味する「ガリア・キスパダナ」(Gallia Cispadana)と呼んだ。 紀元前3世紀以降、ローマ人(共和政ローマ)はこの地域に進出し、紀元前268年にアドリア海沿岸にアリミヌム(現在のリミニ)を建設。ポー平原に勢力を広げ、紀元前218年にポー川河畔に兵営都市プラケンティア(現在のピアチェンツァ)を建設した。 ローマからアリミヌムまではフラミニア街道が紀元前220年に開通した。紀元前187年、アリミヌムとプラケンティアとを結ぶアエミリア街道(エミリア街道、Via Æmilia)が完成し、ローマとポー平原が結ばれることとなった。アエミリア街道沿いには、ボノニア(現在のボローニャ、紀元前189年建設)、ムティナ(現在のモデナ、紀元前183年建設)、レギウム(現在のレッジョ・エミリア、紀元前183年建設)、パルマ(紀元前183年建設)などの都市が建設された。 ローマ人は、現在の北イタリア一帯に属州ガリア(ガリア・キサルピナ)を置いた。属州と本土との境界は、アドリア海側ではラヴェンナとリミニの中間を流れているルビコン川(現在のルビコーネ川、フォルリ=チェゼーナ県東部)であった。ユリウス・カエサルは紀元前58年にガリア総督として赴任し、ガリア人とのガリア戦争を戦い、紀元前49年に著名なルビコン渡河を行っている(ローマ内戦)。 オクタウィウス(のちのアウグストゥス)は、紀元前42年頃にこの地域をイタリア本土に編入し、第8行政区「アエミリア」(Regio VIII Aemilia)あるいは「キスパダナ」(Cispadana)を置いた。「アエミリア」の領域は、おおむね現在のエミリア=ロマーニャ州の州域と重なる。 中世・近世中世前期キリスト教が広まると、この地域に多くの修道院が建設された。これにより、文化的・宗教的な繁栄がもたらされた。 402年、西ローマ帝国のホノリウス帝はラウェンナに都を移している。西ローマ帝国滅亡後、ラウェンナは東ゴート王国の首都となった。540年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世はラウェンナを占領(ゴート戦争)。以後、東ローマ帝国はイタリア北部をラウェンナ総督領として約250年間支配した。ラヴェンナに5世紀初頭から6世紀末にかけて建設されたキリスト教建築物は「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」として世界遺産に登録されている。 一方で6世紀半ばにはランゴバルド人がポー平原に侵入してランゴバルド王国を建国し、東ローマ帝国と争った。751年、最後のラウェンナ総督はランゴバルド人との戦いで戦死する。756年、フランク王国のピピン3世はランゴバルド王国からラウェンナ地方を奪い、この地を教皇に献上した(ピピンの寄進)。 中世盛期からルネサンス期中世のこの地域は、政治的には不安定であった。レッジョ・エミリアに近いカノッサ(現在はレッジョ・エミリア県に属する)から出たカノッサ家は、現在の州域西部を中心として南はトスカーナから北はロンバルディアに至る地域を支配する北イタリアの大領主に成長するが、1115年にマティルデ・ディ・カノッサ(1077年の「カノッサの屈辱」の当事者として知られる)が没すると、遺領には自立的な都市国家(コムーネ)群があらわれ、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立を背景に都市間・都市内部で抗争を繰り広げた(教皇派と皇帝派)。 相互・内部の抗争に疲弊し、大国の圧迫を受けた中小規模の都市国家では、13世紀後半から14世紀前半にかけて一人の有力者に権力を集中させることで危機を打開することが図られ、事実上の君主制であるシニョリーア制が立てられた[8]。世襲化した著名なシニョーリ(僭主)としてはフェラーラのエステ家、リミニのマラテスタ家などが挙げられる。これらのシニョーリアは、教皇国家やヴェネツィア共和国、ミラノ公国(ヴィスコンティ家、のちスフォルツァ家)などの諸国も交えた争いが行われた。 16-17世紀16世紀に現在の州域の大部分は教皇領となり、州域西部ではパルマ公国とモデナ公国が独立を維持した。以後、この状態はナポレオン時代を挟みながら、おおむね19世紀のイタリア統一まで続くことになる。 15世紀末から16世紀初頭にかけて、教皇国家はかつての教皇領の統一を図った。チェーザレ・ボルジアは、イーモラやフォルリを支配するカテリーナ・スフォルツァを降し、チェゼーナ、リミニ、ペーザロ、ファエンツァなどの諸都市を征服し、1501年にロマーニャ公爵に叙せられた。 モデナ公国のエステ家は12世紀末にフェラーラでシニョリーア(僭主制)を確立した一族で、その後モデナやレッジョを支配下に収めたが、16世紀末にフェラーラを教皇に奪われたため、モデナやレッジョ・エミリアのみを支配することとなった。 パルマやピアチェンツァを治めるパルマ公国は、1545年にファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世が庶子に与えたもので、1731年まで約200年間同家が支配した。その後曲折を経て、1748年からはブルボン家(ブルボン=パルマ家)がパルマ公を相続した。 近代フランス革命後、イタリアに侵攻したフランス共和国軍を率いたナポレオン・ボナパルトは、この地域を占領した。1796年、モーデナ、ボローニャ、フェッラーラ、レッジョ・エミーリアの代表者はチスパダーナ共和国(首都:ボローニャ)を建国。翌1797年、この国はポー川以北のトランスパダーナ共和国(首都:ミラノ)と合併してチザルピーナ共和国(首都:ミラノ)となった。チザルピーナ共和国はその後イタリア共和国、イタリア王国と改められた。 ナポレオン没落後のウィーン会議により、教皇領、モデナ公国(オーストリア=エステ家)、パルマ公国が復活した。パルマ女公はナポレオンの皇后であったハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)皇女のマリア・ルイーザであったが、1847年にブルボン家(ブルボン=パルマ家)の手に戻った。 イタリア統一の展開の中、これらの国では親サルデーニャ派が主導権を握り、1859年には中央統合諸州が結成された。1860年に住民投票が行われ、モデナ公国・パルマ公国の領土と、「レガツィオーネ」と呼ばれた教皇領の北部 (it:Legazione delle Romagne) はサルデーニャ王国に編入された。1861年、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によってイタリア王国が建国される。 現代2020年、新型コロナウイルス感染症の拡大が顕著となり、同年3月9日には日本の外務省が感染症危険情報を発出して渡航中止勧告(レベル3)を出す規模に拡大した[9]。 同年、10月、イモラ・サーキットにおいて州の名を冠したF1レース、エミリア・ロマーニャグランプリが初開催(同サーキットでは以前よりイタリアグランプリなどの開催実績あり)[10]。 2023年5月、州内が集中豪雨に見舞われ洪水や地すべりが発生。9人が死亡、数千人が避難を強いられた[11]。同月末に開催が予定されていた 2023年エミリア・ロマーニャグランプリは開催延期となった。 行政区画エミリア=ロマーニャ州は、以下の9県からなる。 左端の数字はISTATコード、アルファベット2文字は県名略記号を示す。人口は2012年1月1日現在[2]。面積の単位はkm²。
住民言語2006年の国立統計研究所(ISTAT)の統計によれば、6歳以上の住民の家庭内での会話における言語状況は以下の通り[12]。イタリア語(Italiano)、地方言語(Dialetto)、他の言語(Altra lingua)についてのデータで、左列が全国平均、右列がエミリア=ロマーニャ州の数値である。
エミリア=ロマーニャ州では、地方言語としてエミリア・ロマーニャ語が話されている。ユネスコの「危機に瀕する言語」のレッドブックやエスノローグでは、エミリア・ロマーニャ語はイタリア語と別の言語とされている。
社会経済・産業→「Category:エミリア=ロマーニャ州の企業」も参照
以下の企業が州内に本社を置くか、もしくは発祥の地とする。 自動車工業
食品産業
文化・観光食文化
世界遺産
スポーツサッカー州内に本拠を置くプロサッカークラブとしては以下がある。所属リーグは2012-13シーズン現在。
5部リーグ(アマチュア最上位リーグ)のセリエDでは、ジローネB,D,Fに属する。エミリア=ロマーニャ州の地方リーグ(6部リーグ)として、エッチェッレンツァ・エミリア=ロマーニャがある。 交通主要な道路おおむね北および西を優先し、通過点もしくはその近傍の地名を示す。〔 〕内は州外。
主要な鉄道空港主要な空港には以下がある。 主要な港湾
姉妹都市・友好都市人物著名な出身者
脚注出典
外部リンク
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