エドマンド・モーティマー (第5代マーチ伯)
第5代マーチ伯エドマンド・モーティマー(Edmund Mortimer, 5th Earl of March, KB, 1391年11月6日 - 1425年1月18日)は、イングランドの貴族。アイルランド貴族でもあり、アルスター伯に叙されていた。父は第4代マーチ伯ロジャー・モーティマー、母はケント伯トマス・ホランドの娘エレノア。姉アンは王族のケンブリッジ伯リチャード・オブ・コニスバラと結婚し、エドワード4世とリチャード3世の祖母となった。 生涯1398年、アイルランドで土着部族の襲撃に遭い戦死した父の爵位と、国王リチャード2世の王位請求権を僅か6歳で受け継いだ。ところが、翌1399年にクーデターが起こりリチャード2世は退位、代わって即位したヘンリー4世からは警戒されて監視下に置かれ、王位がマーチ伯に渡ることはなかった[1][2]。 ヘンリー4世の治世は反乱の連続で、マーチ伯はエドワード3世の玄孫(エドワード3世の次男クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープの女系曾孫)だったことから反乱勢力にたびたび王位継承者として擁立された。1403年に伯母エリザベスの夫ホットスパーと叔父でウェールズ反乱の指導者オワイン・グリンドゥールの娘キャサリンと結婚していたエドマンド・モーティマーらがマーチ伯の王位請求権を掲げて反乱を起こしたが鎮圧された。1405年にもホットスパーの父であるノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとヨーク大司教リチャード・スクループ、ノーフォーク伯トマス・モウブレーらがマーチ伯の権利を前面に立てて反乱を起こしたが、マーチ伯は反乱から遠ざかり関わり合いを避けた[1][3]。 1413年にヘンリー5世が即位すると軟禁から解放、バス勲章を与えられるなど厚遇されたことからヘンリー5世に忠実に仕え、1415年に義兄のケンブリッジ伯らがヘンリー5世を暗殺してマーチ伯を即位させる計画をヘンリー5世に通報して失敗に終わらせた(サウサンプトンの陰謀事件)。以後もヘンリー5世に仕えて百年戦争でフランスに遠征、1423年からアイルランド総督に任命されるが、1425年にアイルランドで死去した[1][4]。 スタッフォード伯エドムンド・スタッフォードの娘アンと結婚していたが、子供が無かったためモーティマー家は断絶、遺領と爵位は甥に当たるヨーク公リチャード・プランタジネット(ケンブリッジ伯と姉アンの子)に引き継がれた。しかし、マーチ伯の死後もその王位継承権は利用され、1450年にヘンリー6世に反乱を起こしたジャック・ケイドはマーチ伯の庶子を称し、反乱平定後はヨーク公が王位を主張してヘンリー6世と対決、薔薇戦争を勃発させる引き金となった[5]。 系図
脚注
参考文献
関連項目
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