エイドリアン・ビームスエイドリアン・ビームス(Adrienne Beames、1942年9月7日 - 2018年12月27日[1])は、オーストラリアの女性陸上競技(長距離走)選手で[2]、しばしば「世界で初めてマラソンで3時間の壁を破った女性」として紹介される[3][4][5]。 来歴オーストラリアンフットボールやファーストクラス・クリケットの選手で、ジャーナリストでもあったパーシー・ビームズを父として生まれる[6]。ランニングを始める前はテニスやスカッシュに秀でていた。 1971年のマラソン1970年代初頭、女性のマラソンは強い反対論に直面していた[4][7][8]。女子の公認陸上トラック競技の最長は1500mだった[6]。ビームズが公式にマラソンに参加しようとして拒否されると、彼女とそのコーチであるフレッド・バーウィックはビクトリア州ウェリビーの公認コースでの女子招待レースを企画した[4][6]。バーウィックの要求に対して、ビクトリア州女子アマチュア陸上競技協会は、レースの計時を拒否した[6]。 1971年8月31日、ビームズがウェリビーのレースを2時間46分30秒で走り、ベス・ボナーが3か月前にフィラデルフィアのAAU東部地区チャンピオンシップで樹立した3時間01分42秒の記録を破ったと、バーウィックは主張した[3][9]。いくつかの文献によれば、1974年10月27日にシャンタル・ラングラスがヌフブリザックで2時間46分24秒の記録を樹立するまで、記録を維持した[3]。別のいくつかの文献はビームズの記録の正当性を疑い、ボナーが1971年9月19日にニューヨークシティマラソンで2時間55分22秒を記録したのが女子初の3時間突破であったとする[10]。当時取材に当たったスポーツライターのジョン・クレイブンは、コースが必要な距離を満たしていたかどうかを疑問視した[11]。一方、マラソン史に詳しい日本の高橋進は、「一部の者はその記録の真偽を疑った。後日、レースの模様が詳しく伝わり、この記録の真実性が裏付けられた」と著書に記し、アメリカではビームズの記録を認めなかったとしている[5]。高橋によると、レースの参加者は18人でそのうち完走したのはビームスを含め15人だった[5][注釈 1]。 「タイム・トライアル」と報じられたビームスの記録は、公式に検証されたり認められることはなかった[4][7][9][12]。国際陸上競技連盟は、マラソン世界記録の推移において、この記録を認めていない[13]。 1972年の活動1972年1月を通して、ビームスのコーチであるフレッド・バーウィックは、実施した私的な複数のタイムトライアルをビームスは完走して複数の世界記録を樹立したと主張した。すなわち、5000mに15分48秒6、、1マイルに4分28秒8、1500mに4分09秒6、そして10000mに34分08秒である。これらはいずれも独立した監視員がおらず、疑問視された[11]。 ビームスはシドニーで現地の公認機関の許可なくレースに出場したため、出場停止処分を下され、1972年ミュンヘンオリンピック出場の望みを絶たれた[4]。 その後1970年代にビームスはアメリカ合衆国に移って学び、働き、そしてロードレースに出場した[4][6]。ビームスは1974年まで、マラソンのほかに5000mと10000mの女子世界記録を保持した[14]。ビームスは1977年10月10日にアリゾナ州スコッツデールのマラソンに出場して2時間46分32秒の公式記録を樹立した。しかし、コースをショートカットしたという理由で失格となった[15]。1983年7月23日に初めて開催されたアシックス・ハーフマラソン(ゴールドコーストマラソンと同時開催)に1時間22分15秒で優勝した[16][17]。 1990年にスポーツ科学のグラジュエート・ディプロマを取得した[6]。 脚注注釈出典
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