ウンベルト1世 (サヴォイア伯)
ウンベルト1世ビアンカマーノ(イタリア語: Umberto I Biancamano, 980年頃 - 1047年/1048年)は、初代サヴォイア(サヴォワ)伯。サヴォイア家の祖。 「ビアンカマーノ」とはイタリア語で「白い手」を意味する。フランス語名ではアンベール・オ・ブランシュ・マン(Humbert aux Blanches Mains)、ラテン語名ではフンベルトゥス・アルビス・マニブス(Humbertus albis manibus)。 生涯生い立ちと家系サヴォイア家の家祖となったウンベルト1世の家系や事跡については、のちに顕彰が図られ物語化されている(#伝説節参照)。しかし、同時代の記録は断片的であり、実際のウンベルト1世(以下、ウンベルト)の生没年や家系は明確にはわからない。 ウンベルトは980年頃、サヴォワ地方モーリエンヌ(現:フランス・サヴォワ県サン=ジャン=ド=モーリエンヌ周辺)の貴族アマデウス(おそらくはモーリエンヌの伯)の子として生まれた[1]。兄弟にはベレー(現:アン県)の司教となったオッドーネがいる。 ウンベルトは、サクソン人やブルグント人、プロヴァンス人などの血を引いていたと言われている。ブルグント王国(アルル王国)の王ルドルフ3世 (Rudolph III of Burgundy) との近い関係[2]から、ウンベルトの家系はブルグント人と考えられ、ヴィエンヌ伯家の血を引くか[3]、あるいはブルグント貴族の家系(たとえばアルボン伯家と同族)ではないか[4]といった推測がされている。 初代サヴォイア伯ウンベルトははじめベレー付近とセルモラン伯爵領(Sermorens)の中に領地を持っており、のちにアオスタやヴァレーに領土を得た[5]。 ウンベルトの子孫は「サヴォイア伯」を世襲して「サヴォイア家」と呼ばれるが、その称号を得た経緯ははっきりしない。ウンベルトの名が文献上に初めて登場するのは1000年1月26日付けの文書であり、以後断片的に史料に登場する。1003年の年紀のあるベレー司教オッドーネによる文書では、ウンベルトの家族が「伯」の家族と呼ばれることがわかる。1003年にウンベルトはブルグント王ルドルフ3世に代わり、セルモランの一部であるヴィエンヌ(現:イゼール県)で判決を下している。 1032年、ルドルフ3世が後継者なく没してブルグント王家が断絶すると、ブルグント王位はルドルフ3世の甥にあたる神聖ローマ皇帝コンラート2世が継承した。ウンベルトはコンラート2世に忠誠を誓った[6]。コンラート2世がブロワ伯ウード2世 (Odo II, Count of Blois) やミラノ大司教アリベルト (Aribert (archbishop of Milan)) と戦うと、ウンベルトはコンラート2世を助けて戦争に参加した[7]。コンラート2世はその功績に報い、ウンベルトをサヴォイア伯として承認するとともに、モーリエンヌ、シャブレー、そしておそらくタレンテーズ (Tarentaise Valley) を新たに与えた[8]。 ウンベルトは、1047年か48年ごろに、モーリエンヌにある町エルミヨンにおいて死去し[9]、サン=ジャン=ド=モーリエンヌのカテドラルに埋葬された。死亡日については、1048年7月1日、1047年7月19日という2通りの記録がある。1042年以前に没していると見るのが妥当という説もある[10]。所領は長男のアメデーオ1世が継承した。 家族アンシリア(Ancilia あるいは Ancilla、Auxilia)という女性と結婚した。彼女の出自については諸説ある。 知られている説では、高位聖職者の娘「アオスタのアンシリア」とする。 一説にはブルグント王国の儀典長の娘である「レンツブルクのアンシリア」、また別の説ではアンセルムと Aldiud の娘であるアンシリアで、アンセルム家(Anselmids)と呼ばれる北イタリアの王家の出身とする[11]。 子供は、少なくとも4男1女を儲けた。
論者によっては、他にも子がいたとする。 ウンベルトの子孫は19世紀後半にイタリアを統一し、イタリア王に即位することになる。 伝説サヴォイア家について書かれた最も古い年代記の一つは、15世紀前半に Giovanni d'Orville によって書かれたものである。サヴォイア伯アメデーオ8世の依頼によって制作されたこの年代記では、400年続くサヴォイア家の始祖であるウンベルト1世の事績を(恋愛、放浪、武勲などさまざまなロマンスを盛り込みながら)おおむね以下のように描いた。 神聖ローマ皇帝オットー2世の孫にあたるサクソン人(ザクセン人)貴族ベロルド(ベルトルト)を父、バイエルン人貴族のカタリーナ(カテリーナ)を母として生まれたウンベルト1世は、フランケン大公コンラート(のちの神聖ローマ皇帝コンラート2世)に従って武功を挙げる。1003年にコンラートからアルプス一帯を与えられたウンベルトは、のちにサヴォイア(サヴォワ)伯国と呼ばれることになる実質的な勢力を築いた[12]。 ビアンカマーノ「ビアンカマーノ」は、実際に手が(揶揄される程に)白いという意味ではなく、「清廉な人」を指す尊称であるとされる[12]。 ただし、彼の城の「白い壁」blancis moenibus を指すラテン語を後世の人が「白い手」albis manibusと誤読したためではないか[12]、とするなどの諸説がある。 脚注
参考文献
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