アメデーオ7世・ディ・サヴォイア
アメデーオ7世・ディ・サヴォイア(イタリア語:Amedeo VII di Savoia, 1360年2月24日 - 1391年11月1日)[1]は、サヴォイア伯(在位:1383年 - 1391年)[2]。赤伯(il Conte Rosso)とよばれる。 生涯アメデーオ7世はサヴォイア伯アメデーオ6世とボンヌ・ド・ブルボンの息子である[1]。1383年に伯位を継承したが、母ボンヌと権力を分かち合わなければならなかった[1]。1384年、親族であるシオン司教エドアルド・ディ・サヴォイアに対する反乱を鎮圧するため、アメデーオは軍を率いシオンを攻撃し、略奪を行った[1]。1388年、アメデーオ7世はプロヴァンス東部の領域およびニースの港町を手に入れ、これによりサヴォイア伯領は地中海への道を確保した[1]。 アメデーオ7世は1391年11月1日に、狩猟での事故により[1]破傷風にかかり死去した[3]。死後にアメデーオ7世の遺言がもとで紛争が勃発した。アメデーオ7世は自身の息子で継承者であるアメデーオ8世の後見人に、慣習に従い息子の母で勢力を持つベリー公ジャン1世の娘ボンヌを指名するのではなく、自身の母で同じく勢力を持つブルボン公ルイ2世の妹ボンヌを指名した[4]。アメデーオ7世の母と妻の対立により、死後まもなくアメデーオ7世が毒殺されたという噂が立った[1]。結局、両者が和解するために3ヶ月の交渉を要した[4]。 アメデーオ7世はその親切なもてなしで知られており、あらゆる立場の人々を楽しませ、客には必ず食事のもてなしをしたという[5]。 結婚と子女アメデーオ7世は、ベリー公ジャン1世(フランス王シャルル5世の弟)の娘ボンヌと結婚し[6]、3子をもうけた。
脚注
参考文献
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