初代カウドレー子爵の邸宅であるサセックス州カウドレーのカウドレー・パーク。1870年代に第7代エグモント伯爵チャールズ・パーセヴァル (英語版 ) によって建てられ、1909年にカウドレー子爵が購入した[ 1] 。
スコットランド・アバディーンのダン・ハウス (英語版 ) 。初代カウドレー子爵の住居であり、彼はここで死去した。19世紀に建てられたもので、1907年に彼が借り受けた後、1912年に購入し、それから1920年までかけて増築した。
初代カウドレー子爵 ウィートマン・ディッキンソン・ピアソン (Weetman Dickinson Pearson, 1st Viscount Cowdray, GCVO , PC 、1856年 7月15日 - 1927年 5月1日 )は、イギリス の技術者 、実業家 、慈善家 であり、自由党 所属の国会議員である。1894年から1910年まではピアソン準男爵 、1910年から1917年まではカウドレー男爵だった。コングロマリット 企業・ピアソン のオーナーである。
若年期
ピアソンは1856年 7月15日 にウェスト・ヨークシャー州 シェリー (英語版 ) で生まれた。父はジョージ・ピアソン、母はウィートマン・ディッキンソンの娘のサラ・ディッキンソンだった[ 2] 。
実業家としての経歴
祖父のサミュエル・ピアソン (英語版 ) が1844年に建設会社のS・ピアソン・アンド・サン(S. Pearson & Son)を設立した。ウィートマン・ピアソンは1880年にこの会社を引き継ぎ、本社をヨークシャー からロンドン に移した。
1900年にはロンドンのグレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道 の建設を引き継ぎ、1904年に完成した後4年間はその運営も行った[ 3] 。
1907年には投資会社であるホワイトホール証券 (英語版 ) を設立し、息子のクリーブ・ピアソンの指揮の下で、1930年代のイギリスの航空会社の発展に重要な役割を果たした[ 4] 。
現在のピアソン社は、主に出版事業を行っている。
メキシカン・イーグル石油会社
1889年、メキシコ 大統領のポルフィリオ・ディアス は、大西洋から太平洋までの横断鉄道(テワンテペク鉄道 (英語版 ) )を建設するために、ピアソンを招聘した。ピアソンがメキシコへ向かう途中、アメリカ合衆国 のテキサス州 ラレド で列車に乗り遅れ、この町で一夜を過ごすことになった。この近くのスピンドルトップ で石油が発見されたことで、この町は石油への熱狂で大騒ぎとなっていた。その夜、ピアソンはメキシコの石油採掘場について簡単な調査をし、彼が建設していたテワンテペク鉄道に燃料を供給するためにその石油を使用できると考えて、ラレドの石油が採掘できそうな土地を取得し始めた[ 5] 。
1902年にテワンテペク地峡 で硫黄が発見され、ピアソンはテキサスの石油掘削職員を派遣して、鉄道に近い隆起地であるポトレリージョスを掘削した。4号井は深さ709フィートの位置で岩塩ドームを掘り当てた。1901年にスピンドレットップで石油が発見されたのは岩塩ドームの端だったため、これは良い兆候だった。8号井はメキシコ初の商業用油井となった。ピアソンはその後、石油採掘技術者のアンソニー・ルーカス (英語版 ) を呼び寄せ、メキシコ各地での石油採掘を行わせた。1908年にはミナティトラン (英語版 ) にメキシコ初の製油所を建設した。1909年、ピアソン社の石油事業を分社化してメキシカン・イーグル石油会社 (英語版 ) を設立した。
1911年、ディアス大統領が打倒され、メキシコ革命 が勃発した。それに伴う暴力と混乱は、メキシコの石油産業 への外国人投資家に悪影響を与えた。1918年10月、ピアソンはカルースト・グルベンキアン との間でメキシカン・イーグル社の売却交渉を開始し、1919年4月にロイヤル・ダッチ・シェル に7500万米ドルで売却した[ 6] 。
政治家としての経歴
ピアソンは、1894年にサセックス州おけるパドックハーストおよびカウンティ・オブ・ロンドンにおけるエアリー・ガーデンズの準男爵 に叙任された[ 7] 。1895年2月の補欠選挙 で自由党 から出馬し、コルチェスター選出の庶民院 議員 として初当選した[ 8] 。1895年の総選挙でも当選し、1910年にサセックス州におけるカウドレー男爵に叙任され[ 9] て貴族に昇格するまでこの議席を維持した[ 10] 。第一次世界大戦 中、ピアソンの指揮の下で、グレトナの軍需品工場やシャトールーの戦車組立工場が建設された。
1917年1月、ピアソンは枢密院 に宣誓し[ 11] 、サセックス州におけるカウドレー子爵に叙任された[ 12] 。同月、ロイド・ジョージ より空軍長官 (英語版 ) 就任を要請され、給与を受け取らないことを条件にこれに同意した。ピアソンは航空機の生産量の向上に熱心に取り組み、在任中に航空機の数を3倍に増やした。しかし、6月13日のドイツ軍の爆撃で600人以上の犠牲者を出したことで批判を浴び、11月に辞任した。
戦後はリベラル政治や慈善活動に積極的に取り組んだ。リーズ大学 のスペイン語学部の教授職を寄付し、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン 、国際連盟連合 (英語版 ) 、イギリス空軍クラブ (英語版 ) 、イギリス空軍慈善基金 (英語版 ) など多くの公共事業に貢献した。
私生活
Arms of the 1st Viscount Cowdray, facade of Dunecht House ピアソンは1881年にアニー・キャス (英語版 ) (Annie Cass)と結婚した。アニーの父は、ヨークシャー州ブラッドフォードの商人、治安判事のジョン・キャスである。アニーとの間に以下の4人の子供をもうけた。
第2代カウドレー子爵ハロルド・ミラー・ピアソン (英語版 ) (Harold Miller Pearson, 2nd Viscount Cowdray)
バーナード・クリーブ・ピアソン (Bernard Clive Pearson)
フランシス・ジェフリー・ピアソン(Francis Geoffrey Pearson、1891年8月23日 - 1914年9月6日) - 第一次世界大戦が始まった1914年8月、海外派遣軍 の自動車輸送師団に入隊してオートバイ輸送兵となり、二等軍曹となった。9月初旬、ドイツ軍がパリへ進撃し連合国軍 がマルヌ川 に向かって押し戻されて行く中、彼はヴァルッド (英語版 ) の町の近くで捕らえられ、1914年9月6日に23歳で死亡した。彼はモントルイユ=オー=リオン (英語版 ) のイギリス人墓地に埋葬された[ 13] 。後になって、彼は非情で残忍な扱いを受け、それが直接の死因となったとの報告が表面化した。同様の報告が当時の北フランス各地で多数上がっており、イギリス国民に大きな憤りを与えた。
ガートルード・メアリー・ピアソン (英語版 ) (Gertrude Mary Pearson) - オーストラリア総督 トマス・デンマン と結婚した。
詩人のナジャ・マラクリダ (英語版 ) は姪に当たる。
死去
ピアソンは1927年5月1日、アバディーンシャーのダン・ハウス (英語版 ) で70歳で亡くなった[ 14] 。子爵位は長男のハロルドが継いだ。
脚注
^ https://www.britishlistedbuildings.co.uk/101401451-cowdray-park-easebourne
^ Burke's Peerage,106th edition page 688
^ S Halliday Underground to Everywhere Sutton Publishing 2001 p52
^ Davies, R. E. G. (2005). British Airways: An airline and its aircraft Volume 1: 1919 - 1939 . McLean, Virginia, USA: Paladwr Press. pp. 74–104. ISBN 1-888962-24-0 . https://documents.pub/download/british-airways-an-airline-and-its-aircraft-v-1 11 June 2020 閲覧。
^ Yergin, Daniel, "The Prize, The Epic Quest for Oil, Money & Power", Simon & Schuster, 1991, p.230-232
^ “$75,000,000 Oil Deal. Royal Dutch and Shell Companies Buy Mexican Eagle Stock” . New York Times . (1919年3月15日). https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1919/03/15/97086178.pdf Though the reference says "Shell Oil Company", now the name of Royal Dutch Shell's U.S. subsidiary , it also says the price was split 60% Royal Dutch/40% Shell, the exact split of the 1907-2005 Royal Dutch – "Shell" Transport joint venture (and their 2005 merger). Thus the 40% buyer must have been "Shell" Transport, not Shell Oil Company.
^ "No. 26526" . The London Gazette (英語). 26 June 1894. p. 3652.
^ F W S Craig, British Parliamentary Election Results 1885-1918; Macmillan, 1974 p98
^ "No. 28398" . The London Gazette (英語). 22 July 1910. p. 5269.
^ Craig, F. W. S. (1974). British parliamentary election results 1885–1918 (英語) (1st ed.). London: The Macmillan Press. p. 98. ISBN 978-1-349-02298-4 。
^ "No. 29920" . The London Gazette (英語). 26 January 1917. p. 947.
^ "No. 29924" . The London Gazette (英語). 30 January 1917. p. 1053.
^ “The Hon Francis Geoffrey Pearson ”. Casualty details . CWGC . 15 May 2016 閲覧。
^ “Lord Cowdray: A great captain of industry” . The Times (44570): p. 16. (2 May 1927). http://find.galegroup.com/ttda/newspaperRetrieve.do?sgHitCountType=None&sort=DateAscend&tabID=T003&prodId=TTDA&resultListType=RESULT_LIST&searchId=R1&searchType=BasicSearchForm¤tPosition=4&qrySerId=Locale%28en%2C%2C%29%3AFQE%3D%28tx%2CNone%2C7%29Cowdray%3AAnd%3ALQE%3D%28da%2CNone%2C10%2905%2F02%2F1927%24&retrieveFormat=MULTIPAGE_DOCUMENT&userGroupName=aber&inPS=true&contentSet=LTO&&docId=&docLevel=FASCIMILE&workId=&relevancePageBatch=CS269425826&contentSet=UDVIN&callistoContentSet=UDVIN&docPage=article&hilite=y ( 要購読契約)
参考文献
Garner, Paul. British Lions and Mexican Eagles: Business, Politics, and Empire in the Career of Weetman Pearson in Mexico, 1889-1919 . Stanford: Stanford University Press 2011.
Middlemas, Keith. The Master Builders: Thomas Brassey, Sir John Aird, Lord Cowdray, Sir John Norton-Griffiths . London: Hutchinson, 1964.
Spender, John A. Weetman Pearson: First Viscount Cowdray . London: Cassell, 1930.
Young, Desmond. Member for Mexico: Biography of Weetman Pearson, First Viscount Cowdray . London: Cassell, 1966.
外部リンク