アンヌ・ダルマニャック
アンヌ・ダルマニャック(フランス語:Anne d'Armagnac, 1402年[1] - 1473年3月以前)は、百年戦争中にフランスで重要な役割を果たし、アルマニャック=ブルゴーニュ内戦においてブルゴーニュ派と対立したアルマニャック家の一員。ドルー伯シャルル2世・ダルブレの妻。 生涯アンヌは1402年にロデーズ近くのガージュにおいて、シャロレー伯・アルマニャック伯ベルナール7世とボンヌ・ド・ベリーの娘として生まれた[2]。アンヌにはアルマニャック伯ジャン4世、ベルナール・ダルマニャック、そしてオルレアン公シャルルの妃ボンヌ・ダルマニャックなど6人の兄弟がいた。また、母ボンヌとサヴォイア伯アメデーオ7世との間に生まれた、アメデーオ8世を含む3人の異父兄姉がいた。 父方の祖父母はアルマニャック伯ジャン2世とジャンヌ・ド・ペリゴール、母方の祖父母はベリー公ジャン1世とジャンヌ・ダルマニャックであった。 父ベルナール7世は、15世紀初頭のフランスにおいて重要な役割を果たした親フランス・親オルレアン家のアルマニャック派の党首であり、アルマニャック=ブルゴーニュ内戦においてブルゴーニュ公ジャン1世率いる親イングランドのブルゴーニュ派と対立した。1415年12月30日、父ベルナール7世はフランス軍総司令官に任命され、王太子シャルル(後のフランス王シャルル7世)の側近となったが、1418年6月12日に暴動を起こしたパリ市民によって暗殺された[3]。 1470年、アンヌは「une pierre pour toucher les yeux, enchassié en or(金に嵌め込まれた目に触れるための石)」を所有していたと記されている。アンヌが治癒力を持つとされるこの「魔法の石」をどこでどのように入手したのかは不明である[4]。 アンヌは1473年3月以前に死去した。正確な没日は不明である。夫のシャルル2世は1471年に亡くなった。アルブレ領主の地位はシャルル2世とアンヌの孫であるアランが継承した。ドルー伯領はアンヌらの息子アルノー・アマニューの手に渡ったが、後にアランが占領した。 結婚と子女1417年10月28日に結婚契約書が作成され署名され、それから半年も経たない1418年4月23日に、アンヌは名目上のドルー伯シャルル2世・ダルブレ(1401年 - 1471年)と結婚した[1]。彼は、1415年10月25日にアジャンクールの戦いで戦死したフランス軍総司令官シャルル1世・ダルブレとボワベルの女子相続人マリー・ド・シュリーの長男であった。2人の間には以下の子女が生まれた。
脚注
参考文献
|