アンニ=フリッド・リングスタッド
フリーダ・リングスタッド(Frida Lyngstad)の通称で知られるアンニ=フリッド・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad、1945年11月15日 - )は、ノルウェー生まれ、スウェーデン育ちのミュージシャンで、ポップ・グループABBAのメンバー。同じくABBAのメンバーであるアグネッタ・フォルツコグと共にボーカルを担当した。 1992年にドイツ貴族出身の夫と結婚しており(その後死別)、プリンツェッシン(プリンセス、公子妃)の称号を持つ(Anni-Frid Lyngstad Prinzessin Reuß von Plauen)。 経歴第二次世界大戦直後の1945年11月15日、ノルウェー北部ヌールラン県のバランゲンに生まれる。父はドイツ国防軍の軍曹アルフレート・ハーゼ(1919年 - 2009年)、母はノルウェー人のシニ・リングスタッド(1926年 - 1947年)。ナチス・ドイツ統治下のノルウェーでは、レーベンスボルン計画の一環として、ドイツ人男性とノルウェー人女性の性交渉を奨励しており、フリーダはその結果生まれた子供の一人だった[1]。 戦後、ナチス・ドイツの協力者の多くは弾圧にさらされたが[2]、これを恐れた母は、まず祖母アルンティーネ(アンニ)・リングスタッド(1898年 - 1970年)とフリーダをスウェーデンに移住させた。自身はノルウェー南部に逃れた後に合流したが、21歳で病死した。フリーダは祖母に育てられたが、スウェーデン移住後も生地のおじ・おばたちとは親密に交流を持ち続け、夏休みのたびに彼らの元に温かく迎えられたという。一方、父親に関しては戦死したと聞かされて育った。フリーダが父親と再会したのは、ABBAが世界的に大流行した後、1977年のことだった。フリーダの出生のいきさつが西ドイツの雑誌に載り、両親の名前が書かれていたことから、それを読んだ異母弟によって実父の生存が知らされたのだった[3]。 早くに音楽家として頭角を現し、1958年に地元・スウェーデンのダンスバンドに所属した。そして1963年に自身のバンド「アンニ=フリッド4」(the Anni-Frid Four)を結成する。最初の夫はこのバンドのメンバーだった男性で、1963年に17歳で結婚した。 1967年9月3日、イギリスの大手レコード会社のEMIがストックホルムで開催した音楽コンテストに参加し、優勝した。それを機にEMIとレコーディング契約を結び、同年9月11日に初のシングルを発売した。このシングルを手がけたのが、後のABBAメンバーで2度目の結婚相手のベニーであった。シングルはヒットし、興行収入の新記録を打ち立てた。 1968年1月10日にスウェーデンのテレビ番組に出演し、そこでアグネッタに出会う。また、1969年にユーロビジョン・コンテストの予選であるメロディーフェスティバーレンで第4位にランクインした。 そして、1972年にスウェーデンでアグネッタ、ビョルン、ベニーと共にABBAを結成して、ユーロビジョン・ソング・コンテスト1974に出場し、「恋のウォータールー」(英・Waterloo)で優勝を果たした。 1978年に長年のパートナーだったベニーと再婚したが、ABBA解散前年の1981年に離婚した。 1992年、造園家ルッツォ・ロイスと3度目の結婚をする。ルッツォ・ロイスはスイス生まれ・スウェーデン育ちであるが、ドイツ貴族ロイス家の一員で公子(プリンツ)の称号を有しており、フリーダも公子妃の称号 (Substantive title) を持つことになる。 1998年に最初の夫との間にもうけた娘のリーゼ=ロッテがアメリカで自動車事故を起こして亡くなり、翌1999年には夫ルッツォ・ロイスが癌により49歳で病死している。 2004年、元ディープ・パープルのジョン・ロードと、彼のアルバム ″Beyond the Notes″ の中の一曲 ″The Sun Will Shine Again" を収録。 ソロ・ディスコグラフィスウェーデン語でのアルバム
英語でのアルバム
ソロ・シングル
コンピレーション
脚注
外部リンク
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