アントン・ウルリヒ (ザクセン=マイニンゲン公)
アントン・ウルリヒ(ドイツ語:Anton Ulrich, 1687年10月22日 - 1763年1月27日)は、ザクセン=マイニンゲン公(在位:1746年 - 1763年)。 生涯アントン・ウルリヒはザクセン=マイニンゲン公ベルンハルト1世とその2番目の妃エリーザベト・エレオノーレ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの次男として生まれた。 1706年に父ベルンハルト1世が死去した際、ベルンハルト1世の遺言に従えば公国は相続人の間で分割されることはなかった。しかし長子相続制を採用していなかったため、その3人の息子(アントン・ウルリヒと異母兄であるエルンスト・ルートヴィヒ1世およびフリードリヒ・ヴィルヘルム)が共同統治することとなった。この結果、兄エルンスト・ルートヴィヒ1世とアントン・ウルリヒは、エルンスト・ルートヴィヒ1世が1724年に死去するまで対立が続いた。しかし混乱は続き、兄フリードリヒ・ヴィルヘルムとアントン・ウルリヒは相反する法令を発令した[1]。 アントン・ウルリヒは、1711年にオランダで密かに貴賤結婚し、アムステルダムに居を構えていた。アントン・ウルリヒの母方の叔母は神聖ローマ皇帝カール6世の妃であったため、アントン・ウルリヒは自身の子供たちに相続権を与えようとした。しかしカール6世が死去した後、カール7世の時代にアントン・ウルリヒの10人の子供たちは、1744年に継承権を剥奪されたことが明らかとなった。1746年、兄フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が亡くなり、アントン・ウルリヒが唯一のザクセン=マイニンゲン公となった。ヴァイマル家およびゴータ家は、すでにアントン・ウルリヒ死後のザクセン=マイニンゲンの分割について話し合っていたが、アントン・ウルリヒは再婚しさらに8子をもうけ、それらの子女は継承権を保持することとなった[1]。 アントン・ウルリヒは公国を継承した直後にマイニンゲンを去り、フランクフルトに公邸を構え、1763年1月27日に同地で死去した[1]。 結婚と子女1711年1月、アントン・ウルリヒは姉エリーザベト・エルネスティーネの侍女フィリピーネ・エリーザベト・シーザーと秘密結婚した。この結婚は貴賤結婚とみなされたが、フィリピーネ・エリーザベトは侯夫人(Fürstin)の地位を与えられ、生まれた10人の子女も侯(Fürst)または侯夫人(Fürstin)の地位を与えられた。
1750年9月26日にバート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエにおいて、43歳若いエリーザベト・エレオノーレ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルと結婚した。2人の間には8子が生まれた。
脚注
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