ゴドフリー・ネラー による肖像画
初代バサースト伯爵 アレン・バサースト (英語 : Allen Bathurst, 1st Earl Bathurst PC 、1684年 11月16日 - 1775年 9月16日 )は、イギリス の政治家 、貴族 。トーリー党 所属。1712年 から1772年 までバサースト男爵 の称号を使用した。
生涯
サー・ベンジャミン・バサースト (英語版 ) (1639年頃 - 1704年)とフランシス・アプスリー (英語版 ) (1653年 - 1727年、アレン・アプスリー (英語版 ) の娘)の息子として、1684年11月16日にセント・ジェームズ・スクエア (英語版 ) で生まれた[ 1] 。家庭教師アベル・ボイヤー (英語版 ) の教育を受けた後[ 2] 、1700年5月13日、オックスフォード大学 トリニティ・カレッジ に入学した[ 3] 。
1705年イングランド総選挙 でサイレンセスター選挙区 (英語版 ) から出馬して当選、1708年 と1710年 の総選挙で再選した[ 2] 。議会ではトーリー党に属し、ヘンリー・サシェヴェレル (英語版 ) の弾劾にも反対した[ 2] 。1712年1月1日、グレートブリテン貴族 であるベッドフォードシャー におけるバトルズデンのバサースト男爵 に叙された[ 1] 。貴族院 が講和条約を可決するよう保障するために叙爵された12人の1人だった[ 2] 。
1714年にアン女王 が死去してジョージ1世 が即位すると、新政権入りを目指したが、ジョージ1世にトーリー党員を任命する意思がないことが明らかになると、ジャコバイト に転じ、ジェームズ老僭王 に資金援助をするようになり、また貴族院で与党に反対し続けた[ 2] 。
1719年、王立音楽アカデミー社 (英語版 ) に出資した[ 4] 。また、1739年に創設された捨子養育院 (英語版 ) の初代総裁の1人だった[ 5] 。
ロバート・ウォルポール 政権に反対したためか、1742年にウォルポールが首相を辞任すると、バサーストは同年7月13日に枢密顧問官 に任命され、さらに同年から1744年まで恩給紳士隊隊長 を務めた[ 1] 。続くヘンリー・ペラム 政権期では王太子フレデリック・ルイス (1751年没)の党派に入り、その死後は王太孫ジョージ の党派に入った[ 2] 。しかし、その見返りは遅く、バサーストは王太孫ジョージがジョージ3世として即位した直後に2,000ポンドの年金を与えられたほか[ 6] 、1772年8月27日にようやくサセックス におけるバサーストのバサースト伯爵 に叙された[ 1] 。このとき、バサーストはすでに88歳という高齢であった[ 1] 。
1775年9月16日にサイレンセスター で死去、同地で埋葬された[ 1] 。息子ですでにアプスリー男爵 に叙されていたヘンリー が爵位を継承した[ 1] 。死後に残された手紙はジャコバイトに関与した証拠を隠滅するために燃やされた[ 2] 。
人物
趣のあり、ウィットに富む人物で、アレキサンダー・ポープ とジョゼフ・アディソン の友人だったという[ 1] 。ポープは『道徳論集 (英語版 ) 』の3作目をバサーストの献呈した[ 6] 。
1706年にウィリアム・ダンクーム からバトルズデン・ハウス (英語版 ) の邸宅を購入したが、1724年に第2代準男爵サー・グレゴリー・ページ (英語版 ) に売却した[ 7] 。
家族
1704年7月6日、キャサリン・アプスリー(Catherine Apsley 、1688年7月6日洗礼 – 1768年6月8日、サー ・ピーター・アプスリーの娘)と結婚[ 1] 、4男5女をもうけた[ 8]
出典
^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary , eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 28–29.
^ a b c d e f g Watson, Paula; Hanham, Andrew A. (2002). "BATHURST, Allen (1684-1775), of Oakley Park, nr. Cirencester, Glos." . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年10月20日閲覧 。
^ Foster, Joseph , ed. (1891). "Barrowby-Benn" . Alumni Oxonienses 1500-1714 (英語). Oxford: University of Oxford. pp. 79–105.
^ Milthous, Judith; Hume, Robert D (January 1986). "The Charter for the Royal Academy of Music". Music and Letters (英語). 67 (1): 51. doi :10.1093/ml/67.1.50 。
^ A Copy of the Royal Charter Establishing an Hospital for the Maintenance and Education of Exposed and Deserted Young Children (英語). p. 5.
^ a b Courtney, William Prideaux (1885). "Bathurst, Allen" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 3. London: Smith, Elder & Co . pp. 406–407.
^ "Battlesden Manor" . Bedfordshire Archives and Records Service (英語). 2021年6月16日閲覧 。
^ "Bathurst, Earl (GB, 1772)" . Cracroft's Peerage (英語). 3 July 2019. 2019年10月20日閲覧 。
^ Drummond, Mary M. (1964). "WHITSHED, James (b. c.1716), of Hampton Court, Mdx." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年10月20日閲覧 。