トリニティ・カレッジの現在地は、元々、ダラム大聖堂のベネディクト会僧侶が13世紀後半に創設した、ダラム・カレッジ (オックスフォード)(英語版)の跡地である[4]。カレッジは、ひとつの中庭をぐるりと取り囲むように建てられ、中庭は現在も「ダラム・クワドラングル」(ダラム中庭の意味、英: Durham Quadrangle)として現存している[10]。また、ダラム中庭の東側にあるオールド・ライブラリー(英: the Old Library)を含む1棟は、ダラム・カレッジが1417年から1421年に建てた図書館を流用したものである[11][12]。
ダラム・カレッジの土地は、王室によって1545年に没収された。1553年にはエドワード6世が、旧ダラム・カレッジの建物と敷地の大半を、ゴッドストウ(英語版)のジョージ・オーウェン博士(英: Dr George Owen of Godstow)と、オックスフォードのウィリアム・マーティン(英: William Martyn of Oxford)に下賜した。2年後の1555年2月20日(当時の暦では1554年2月20日)、オーウェンとマーティンは自力出世した政治家のトーマス・ポープ(英語版)に売却した。トーマス・オードリー (初代ウォルデンのオードリー男爵)(英語版)の遺言実行者だったポープは、ケンブリッジ大学のモードリン・カレッジ創設や、現在大学の図書館・食堂・就寝区画があるブロード・ストリート(英語版)に位置する小区画の建設にも深く関与した[4]。政治的状況もポープにとって好都合であり、新しく王位に就いたメアリー1世は、オックスフォードをカトリック研究の場所として再興することに大きな関心を持っていた。メアリーの影響力を得たほか、裕福だったが子どもがいなかったポープは、カレッジの創設に家族の名前を残すことができるという可能性を見ていた。1555年3月8日、ブロード・ストリートの土地を取得した16日後に、ポープは王室からカレッジ創設の特許状を得た[4]。
カレッジの名前は "The College of the Holy and Undivided Trinity in the University of Oxford, of the Foundation of Thomas Pope"(意味:トーマス・ポープが創設した、オックスフォード大学の神聖にして不可分の三位一体カレッジ)となり、ここでは新しい(カトリックの)創設が高らかに謳われている[4]。ダラム・カレッジは聖母マリア、聖カスバート(英語版)、三位一体(トリニティ)に捧げられていたので、カレッジの名前はここから取られたのだと考えられている[4][13][14]。カレッジ創設の際の制定法では、学寮長1人、フェロー12人、スカラー8人、給費生でない一般学生20人という構成で、当初はオックスフォードで最も小さなカレッジのひとつでもあった。フェローはポープの主張で神学を研究するよう求められた。ポープはモードリン・カレッジのフェローだったトーマス・スライハースト(英語版)を初代学寮長に選出した。関連する地所は、ポープによる1555年3月28日のカレッジ訪問時に全てカレッジ側に移されたが、これはポープにとって唯一のカレッジ訪問となった[15]。学部生への授業としては、古典文学、哲学(数学、幾何学を含む)、天文学などが行われた[16]。フェローを見つけるのには遅れが出たが、1556年3月25日には、土地からの収入がカレッジにもたらされるようになった。制定法は5月1日に正式発効し、29日後に「オックスフォード大学トリニティ・カレッジ」が、最初の生徒に向けて門戸を開くことになった[15]。
トリニティのカトリック主義は、ポープの死後王室との関係を難しくした。1558年に王位に就いた新女王エリザベス1世はプロテスタントで、カトリックだったスライハーストは女王の即位直後に役職を追われた。トリニティにとって幸運なことに、スライハーストの後任となった元フェローのアーサー・イェルダード(英: Arthur Yeldard)は、どう見ても熱心なプロテスタントではなかったが、実践的な人物だと評価され、続く40年近く学寮長の職を守った[18]。この頃、トリニティは時代と共に転換することに消極的だったが、王室からの脅しも受け、教会の貴金属を鋳つぶし、英語の聖歌書を購入した。変革に反対した多くのフェローがカレッジを去った。1583年には、トリニティ・カレッジと、隣接するベリオール・カレッジとの最初の対立が記録されており、ベリオール側からトリニティに対し、プロテスタントの教えに忠実でないとの訴えが起こされた[16]。
戦後、国会議員による監査 (Parliamentary visitation of the University of Oxford) が行われ、トリニティにはフェロー3人・スカラー9人・一般学生26人が在籍していると確認されたが、フェロー2人・スカラー1人・一般学生1人・経理部長2人は、国会への忠誠宣誓を拒否して強制退去させられていた。新しい学寮長になったロバート・ハリス(英語版)はトリニティに押しつけられただけの人選だったが、10年間の学寮長生活の間で、何か騒ぎがあったという証拠は見つからない。むしろ、トリニティはゆっくりと復活し、財政状況も着実に改善していた[21]。ハリスは1658年12月12日に亡くなり、フェローたちは国会の監査員に干渉される前に、ウィリアム・ホーズ(英: William Hawes)を彼の後継者として選出した。ホーズ自身は9ヶ月後に病に倒れ、画策して死の直前に辞任したが、これはフェローたちが再び国会議員たちを出し抜けるようにとの意図だったと考えられている。フェローたちは「学寮長職を全うできる最適の人物のひとり」(英: "one of the most able men to hold the presidency")としてセス・ウォード(英語版)を選出したが、1660年代のイングランド王政復古により、ポッターら戦前の主要人物がオックスフォードに帰還したため、彼の施政は長くは続かなかった[21]。ポッターは1664年に亡くなったが、その最期は穏やかなものだったと考えられている。新しく学寮長に就任したラルフ・バサースト(英語版)は、断続的ながら、既にカレッジの運営に関与した経験があった。彼は学生数の大幅増加が目下の最重要事項だと述べた[21]。
バサーストのトリニティ(1664年–1704年)
バサーストの計画は30年にわたって実行されたが、建設後すぐに構造が脆くなっていた15世紀初頭の大聖堂や、談話室 (common room) として使われていたオールド・バーサリー(英: the Old Bursary、旧会計課の意味)など、多くの建物が建て替えられた[19]。古い台所は1681年に交換され、学寮長公舎も改装された[21]。2つのローンを組んで1694年4月に完成した大聖堂は、ピョートル1世のオックスフォード訪問中に唯一完成していた建物だが、彼がこの大聖堂に足を踏み入れたかどうかは記録が定かでない。また華麗な大聖堂の最終設計と同じように、クリストファー・レンが担当して独立した建物がひとつ建設され、これが中庭を囲んで現存する建物(英: the college's "Garden" quadrangle)の北側部分となった[19][21]。卒業生やフェローから1,500ポンド(2023年時点の£325,200と同等[17])の建設費用を集め、新区画は1668年までに使用が可能になり、また入居者によって内装調度品が次第に充実していった[21]。バサーストはキャンパスの拡充をさらに追求し、1682年から1684年に現存する中庭の西側にあたる独立区画を建設し[19]、19世紀遅くには、この建物にエポニムとして「バサースト棟」(英: "Bathurst building")との名前が付けられた[21]。
18世紀に入ってのカレッジには、そうそう運勢の変化は現れず、17世紀終盤と同じように経済的安定が維持された[22]。バサーストは1704年に亡くなり、学寮長の座は不運なフェローだったトーマス・サイクス(英: Thomas Sykes)に渡った。サイクスは学寮長就任までに体調を崩しており、翌年に亡くなった。新しい学寮長となったウィリアム・ドブスン(英: William Dobson)はサイクスと同世代で、30年近くにわたってフェローを務めていた人物だった[23]。ドブスンはすぐに、ヘンリー・ノリーズ(英: Henry Knollys)という生徒を、チューターの望みに反して除籍し、議論を呼ぶことになる。決定を声高に批判したとして、その後さらに2人の一般学生が放校された。ドブスンはまた、大学でホイッグ主義を支持したことや、フェロー任命の伝統を打ち壊そうとしたことでも批判された。ドブスンは1731年に亡くなり、フェローによる占拠で次の学寮長にはジョージ・ハデスフォード(英: George Huddesford)が選出されたが、彼は学寮長としては比較的若かったので、44年292日というカレッジ史上最長の在任期間を誇ることになった[23]。ハデスフォードは自身のお気に入りで、今日でも学術・文学面でその名が知られるトーマス・ウォートン(英語版)と対立したとして、思いがけなく彼に勝利したジョゼフ・チャップマン(英: Joseph Chapman)を更迭した。チャップマンはその後1805年に亡くなった[23]。
オックスフォードで学究的生活を送る生徒の不足はトリニティに限ったものではなく、不安が大きく広まった結果、大学は19世紀初めに「オックスフォード大学試験規則」(英: the Oxford University Examination Statute)を導入し、学位の取得条件として以前よりも格段に厳しい試験を課すようになった[25]。19世紀前半のトリニティは、教育の改革を行おうという勢いに対し、概して好意的に反応した[22]。「コレクション」は1809年に規格化・正式化され、当時学生だったジョン・ヘンリー・ニューマンは1817年までに、「一層の厳格化」でトリニティが「最も厳しいカレッジになる」として喜んでいる[注釈 3]。しかしながら、トリニティ卒業者が最後に第一級優等学位(英語版)を取って卒業したのは10年も前のことだった。ジョン・ウィルソン(英: John Wilson、1850年就任)の学寮長任期までには、トリニティ・オックスフォード大学の双方で、信仰の道に教え導くことではなく、しっかりとした学習が必要とされるようになっていた[25]。
1914年に第一次世界大戦が始まってから、トリニティの学部生の数は劇的に減少した。5月にはカレッジに150人が住んでいたが、年末までには30人に迫り、戦争終結時には一桁台にまで落ち込んでいた。ブラキストンは遺族に手紙を書き送ったが、その数はすぐに膨れあがり、中にはヴィクトリア十字章を2回受けたイギリス陸軍のノエル・ゴドフリー・シャバス(英語版)(1917年没)の家族もいた。学費を払う生徒はほんのわずかで、カレッジの財政は傾き、ブラキストンをはじめとした多くのスタッフが給料を大きく減額した[26]。武装隊のために接収された部屋からの収入は、カレッジの長期展望を可能にし、新入居者のために新設された浴室はほとんどただで建設された。多くの生徒がカレッジを去ったのに続き、フェローも軍に奉仕するとして数人が立ち去った。必然的に、ブラキストンもカレッジや大学全体のためにより多くの管理職業務を強いられるようになり、1917年から1920年までは大学の総長 (en) も務めた。それでも彼は「カレッジ・マン」(英: "a college man")としての自分を貫き、大学全体の仕事をしていた期間は、その多くがトリニティの独立を守ることに捧げられた[26]。
1939年9月には第二次世界大戦が勃発したが、第一次世界大戦ほどの大きな影響は受けず、大学全体で導入された新進士官用のコースや、隣接するベリオール・カレッジの居住施設が接収されたことに伴った新しい建物の借り受けなどで活気を保った。他のカレッジでは生徒数が減少したが、トリニティではその数を保ち、トリニティでは物資不足の中でも良い生活水準の維持に励んだ[27]。それでもなお、戦死者は25年前の第一次世界大戦と同じくらい出て、仕官して戦死した卒業生は総勢133人に上り、またオックスフォードの卒業者が多く配属されたイギリス空軍で特に多かった。加えて、シニア・コモン・ルーム (Senior Common Room) のフェロー会員は、少なくとも戦時中に大きくその数を減らした[27]。
2013年の段階で、トリニティはオックスフォード中最小のカレッジのひとつだったが、それでも戦後は学生数を大きく増やした。カンバーバッチ棟(英: The Cumberbatch buildings、現在のステアケース3・4)は住居区画として1966年に新設され、また数世紀の時を経てくすんでいた石造りの建物が、オックスフォード中で改装されたことで、カレッジは大きな恩恵を受けた[27]。大広間の漆喰は女王のトリニティ訪問に合わせて再工事され、女王は夫のフィリップ王配、ハロルド・マクミラン首相と、1960年のセント・キャサリン・カレッジ(英語版)に合わせてトリニティを訪れた。卒業生の増加に伴い、1964年にはミドル・コモン・ルーム(談話室の一種)が用意されたほか[27]、フェローの数も増員された。拡張工事の費用は大半が寄付で賄われ、これに加えてブラックウェルズ(英語版)からは、地下のノリントン・ルーム(英: Norrington Room、当時の学寮長だったアーサー・ノリントン(英語版)に因む)の建設用基金・賃貸借契約も受けた。その後は、ローリンソン・ロード(英: Rawlinson Road、1970年)とスタヴァートン・ロード(英: Staverton Road、1986年)の整備、18番目のステアケース建設(1992年)などが行われた[27]。
貧しい生徒のため基金を拡大したことで、戦前にトリニティが行っていた中流階級優遇は時代遅れとなったほか、レイシズムであるという噂を断ち切るのは難しいことが分かった。ベリオールとのライバル関係は再び活気づき、1952年にトリニティのボート・チームが行ったブラックフェイス・パフォーマンスや、ベリオール側からの談話室襲撃(1963年)など、多くの事件が起きた。しかしながら、カレッジの厳格な伝統は、その多くがゆっくりと消え去っていった[27]。カレッジの自由化は、ノリントンの公認であるアレクザンダー・オグストン(英: Alexander Ogston)の時代に加速した。トリニティでは1968年に初の女性講師を招き、1972年からは夜通しの来客者、1974年からは週末の来客者を許可し、1977年には夜間外出禁止令も廃止された。この時までにカレッジは、戦後の雇用状況に合わせ、使用人の雇用から、専門職スタッフの雇用へと軸足を移していた[27]。結果として、朝食・昼食はセルフ・サービスとなり、また学生向けの台所施設は1976年に設置された。また、談話室は、1972年から生徒間の基金によって直接運営されるようになった。最も大きな変化は1979年の女子生徒入学許可だったが、この移行は比較的スムーズにいった。最初の女性フェローは1984年に選出され、日々の仕事は以前の僧院のようなものから、近代的カレッジのものへと転換した[27]。
ドロシー・L・セイヤーズは、1931年に発表したピーター・ウィムジイ卿シリーズの小説『五匹の赤い鰊(英語版)』の中で、ベリオール・カレッジ出身のピーター卿に、トリニティにいた同年代の学生で誰か覚えていないか問い掛けるシーンを書いている。卿は「トリニティの人間なんか覚えていない」と返し、更に「ユダヤ人はサマリア人と関わり合いになんかならない」と述べる[33]。セイヤーズはまた、1933年発表の『殺人は広告する(英語版)』でもライバル関係を描き、トリニティ出身のイングルビィ氏(英: Mr Ingleby)に、「もしあれよりもっとおぞましいことがあるとすれば、ベリオール出身ということだな」(英: "If there is one thing more repulsive than another it is Balliolity.")と言わせている[34]。
「親愛なる[X]さん、ベリオールへようこそ。あなたもお気付きのように、入学に際して、大学では短い健康診断を行う必要があります。添付の検体ボトルに尿検体を入れて、水曜日の午後5時までに、遅れずに大学のチューターのオフィスへお戻しください。」
"Dear [X], Welcome to Balliol. As you are aware the university requires a short medical check-up as part of your Coming-Up. Could you therefore please provide a urine sample in the attached sample bottle and return it to your college tutor's office by no later than 5.00 PM on Wednesday."
手紙は水曜日の夕方に送られ、ベリオール側は57人がこのいたずらに引っかかったことを認めた。この事件は、『デイリー・エクスプレス』で「学生たちがお隣さんにちっぽけなジョークを」(英: "students play wee joke on neighbours")との見出しが付いて報道された。この一件は、トッドとコーエンがベリオール・カレッジに向けて広げた、「私たちはベリオールです。おしっこを持ってこないでください!」(英: "We are Balliol. Please Don't Take The Piss!")という垂れ幕で一件落着した。最近では、2010年にトリニティのSCRの池が荒らされ、1匹を除いて全ての魚が死ぬという事件が起こっている[36]。
大聖堂(チャペル)はヘンリー・オルドリッチ(英語版)がクリストファー・レンの助言を得ながら設計したもので、1694年に聖別された。トリニティ・カレッジ大聖堂聖歌隊(英: The Trinity College Chapel Choir)は、8人までの聖歌隊スカラーと、30人以上のボランティア唱歌隊で構成されている。この聖歌隊は大学随一の人数を誇り、メンバーの大半はカレッジの関係者である。聖歌隊は、毎週日曜日の夕べの祈り(英語版)で歌うほか、2、3週に1回歌唱し、カレッジの行事にもなっている。音楽監督はカレッジにおらず、オルガン・スカラー(英語版)が演奏に責任を持ち、またチャプレンがこれを監督する。
聖歌隊は毎年ツアーを行っており、2008年にはダブリンでコンサートと聖パトリック大聖堂での聖餐式(英: Sung Eucharist)で歌ったほか、2009年夏にはローマ、2010年にはパリ、2011年にはバルセロナ、2012年にはウィーンを訪れている。2009年には "A Voice from Afar"と銘打ったCDをリリースし、当時のオルガン・スカラーだったキャサリン・ウォレス(英: Catherine Wallace)が監督を務めた[44]。
^原文:the "increasing rigour" had caused Trinity to "become the strictest of colleges".
^"Gordoulis" というのは、エジプトたばこの人気ブランドのひとつである。これが "Gordouli" となると、ベリオール側からトリニティ・カレッジの学部生、アーサー・ガレッティ(英: Galletti)へ付けられた渾名となる。また、歌詞に登場する「ボビー・ジョンソン」というのは、後に王立造幣局の局長代理・監督官(英: Deputy Master and Controller)になったロバート・ジョンソン(英語版)のことで、彼は同じオックスフォード大学のニュー・カレッジ(英語版)の学部生だった。詳しくはG・ノーマン・ナイト(英: G. Norman Knight)による "Quest for Gordouli" を参照[30]。
^Clare Hopkins and Bryan Ward-Perkins, "The Trinity/Balliol Feud", Trinity College Oxford Report (1989-90), pp. 45-66.
^Hopkins and Ward-Perkins, "Trinity/Balliol Feud", p. 45.
^ abcFor the Gordouli, see G. Norman Knight, "The Quest for Gordouli", Balliol College Record, 1969; reprinted in Trinity College Oxford Report, 1984-5.
^Hopkins and Ward-Perkins, "Trinity/Balliol Feud", pp. 54-60.
^Sayers, Dorothy L. (1968) [1931]. 五匹の赤い鰊(英語版) - Five Red Herrings. London: New English Library. p. 157. "I never knew any Trinity men. / 'The Jews have no dealings with the Samaritans.'" Wimsey's Biblical quotation is from John 4: 9.