アレクシイ (アレクシー )2世 (ロシア語 : Алексий II , 1929年 2月23日 - 2008年 12月5日 )は第15代のモスクワ及び全ロシアの総主教 、ロシア正教会 首座主教 であった。俗名は、アレクセイ・ミハイロヴィッチ・リディゲル (ロシア語 : Алексей Михайлович Ридигер Alexey Mikhailovich Ridiger [ 1] )である。民族的にはバルト・ドイツ系 。
アレクシイ2世はポスト・ソ連期の総主教 で、かつてKGB の手先や国家保守主義の支持者であったと言われながらも[ 2] 、ソビエト連邦の崩壊 後の宗教再生を見守り、彼が総主教の座にあった18年間にロシア正教会は、ソヴィエト 当局から厳しい迫害や統制を受ける対象から、国のエリート政治家に好意的に受け入れられて積極的に発言するロシアの象徴的存在へと変貌を遂げた。
名前
彼の名前は、俗人としてはアレクセイ(Алексей )、聖職者としてはアレクシイ(Алексий )である。ラテン文字 ではさまざまな形で転記されており、Alexius, Aleksij, Aleksi, Alexiy, Alexis, Alexei, Alexey, Alexyなどがある。修道士 になった時も彼の名前は変わらなかったが、彼の守護聖人 はローマの聖アレクシウス から、モスクワ神現大聖堂 に眠るモスクワ府主教アレクシイ に変わった。
生涯
出自
アレクセイ・ミハイロヴィチ・リディゲル (ロシア語 : Алексей Михайлович Ридигер - Aleksei Mikhailovich Ridiger ) はエストニア のタリン に生まれた。彼の父ミハイル・フォン・リディゲル(1902年 - 1962年)はサンクトペテルブルク 生まれのバルト・ドイツ人 貴族の末裔であり、その祖先ハインリヒ・ニコラウス(ニルス)・リュディガーはスウェーデン領リヴォニア (Dünamünde ) にあったスウェーデンの要塞の長で、1695年にスウェーデンのカール11世 によりナイト 爵に叙せられた人物である。
18世紀初頭の大北方戦争 の結果、スウェーデン領エストニア とスウェーデン領フィヴォニア がロシア帝国 に帰した後、アレクシイ2世のもう一人の祖先、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・リュディガー(1780年 - 1840年)は、エカチェリーナ2世 の治世に正教会 に帰依した。ダリヤ・フョードロヴナ・エルジェムスカヤと結婚して誕生したのが、アレクシイ2世の曽祖父にあたるイェゴル(ゲオルギー)・フォン・リュディガー(1811年 - 1848年)である[ 3] 。
1917年のロシア10月革命 の後、アレクセイの父ミハイルは国外に逃れ、一家はエストニアに移住し、ラルフフォンツアミューレンに隠れ家を提供されてHaapsaluに住んだ[ 4] 。のちにミハイルはエストニアの首都タリンに移り住み、そこでアレクシイ2世の母エレーナ・ヨシフォヴナ・ピサレヴァ(1902年 - 1959年)と出会って1926年に結婚した。彼女はタリンに生まれ、同地で没した[ 1] 。
アレクセイの父は1940年に神学校 を卒業して叙聖 され、のちに司祭 となり、タリンの生神女誕生教会 の教区司祭、さらには教区会議(Diocesan Council)のメンバーかつ議長となる。
経歴
アレクセイ・リディゲルは、子どものころから代父 である長司祭 イオアン・ボゴヤヴレンスキー(Ioann Bogoyavlensky)の導きの下で正教会 に奉仕しながらタリン のロシア中等学校に通った。
1945年 5月から1946年 10月にかけて、彼はタリンのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂 で奉神礼 の堂役 を務め、1946年からは聖シメオン教会で、1947年からはタリンにあるカザンの生神女 教会での誦経者 を務めた。
ティーホン 総主教 の不朽体 をドンスコイ修道院 に運び入れるアレクシイ2世を描いたフレスコ画
クレムリン の生神女福音大聖堂 で行われたプーチン大統領 の就任式で、聖アレクサンドル のイコン を手渡すアレクシイ2世。 2000年5月7日撮影
アレクシイ2世とウクライナ コサック のヘーチマン 、アナトリー・シェフチェンコ。2004年
アレクシイ2世と在外ロシア正教会 のラウルス府主教 (向って左)。2008年2月28日撮影。
1947年 、レニングラード神学校に入学、1949年 に卒業後、レニングラード神学アカデミー(現在は サンクトペテルブルク神学校 )に入学し、1953年 に卒業した[ 5] [ 6]
1950年 4月15日、レニングラードのグレゴリイ(チュコフ)府主教 により輔祭 に叙聖 され、同月17日には司祭 となりタリン主教区でエストニアJõhvi 市にある神現 教会の教区司祭に任命された。
1957年 7月15日、アレクシイはエストニア・タリンにある生神女就寝大聖堂 の 教区司祭 兼タルトゥ 地方のDean となる。
1958年 8月17日、長司祭に昇叙され、1959年 5月30日には、タリン主教区のタルトゥ -ヴィリヤンディ 管区のDeanに叙任された。1961年 3月3日、剃髪して至聖三者聖セルギイ大修道院 至聖三者 大聖堂 の修道士 となる[ 5] 。
1961年8月14日、アレクシイはタリンおよびエストニアの主教 に選出された。1964年 6月23日、大主教 に昇叙、1968年 2月25日、府主教 となる[ 6] 。1986年 から総主教 に選ばれるまで、アレクシイ2世はノヴゴロド・レニングラード府主教であった。
1990年に先代のピーメン1世 が逝去したあと、フィラレート 総主教代行 を抑えてアレクシイがロシア正教会の新しい総主教に選ばれた。彼が選ばれたのは、運営経験があり、知的で精力的で勤勉で計画性と洞察力がありきちんと仕事ができる、と評価されたからである。[ 7] 。
また、調停者として様々な主教グループの間で共通の土台を見つけることができるという評判もあった[ 8] 。
クリュソストモス (Martyshkin)大主教 は、アレクシイは平和的で寛容な性質で我々すべてを一体に結び付けることができるだろうと述べた[ 9] 。
ソヴィエト連邦時代、ソヴィエトの宗教抑圧政策により総主教の選出にも様々な弾圧や抑制が加えられてきた歴史があるが、総主教アレクシイ2世は「ソヴィエト連邦史上初めて政府の圧力を受けずに選ばれた総主教で、候補者は会場から指名され、選挙は無記名投票で行われた」[ 6] 。
総主教に就任すると、アレクシイ2世は教会の権利の代弁者となり、ソビエト政府に公立学校での宗教教育を認めることと「信教の自由」を法で認めることを求めた[ 6] 。
1991年 8月 のクーデター では、アレクシイ2世はミハイル・ゴルバチョフ 大統領が軟禁されたことを非難し、クーデターの首謀者たちを破門した[ 6] 。アレクシイ2世は臨時政府の正当性に公式に疑問を投げ、軍部に自制を求め、ゴルバチョフ大統領が一般民衆に向かって発言することを許すよう要求した[ 10] 。
アレクシイ2世は再度、暴力と同胞殺しに反対する声明を出し、これは拡声器で増幅されてロシアの「ホワイト・ハウス 」の外で攻撃30分前の軍隊にも伝えられた[ 8] 。最終的にクーデターは失敗に終わり、結果的にソビエト連邦は崩壊 に至った[ 11] 。
1992年 、アレクシイ2世の指導のもとで、共産主義時代に弾圧されたロシアの新致命者 と表信者 は列聖 された。その中にはエリザヴェータ・フョードロヴナ 、キエフおよびガリチアの府主教ウラジミール 、ペトログラード府主教ベニヤミンが含まれる[ 12] 。
2000年 には、All-Russian Council(全ロシア協議会)がニコライ2世 とその家族を含む多くの新致命者 を列聖した[ 13] 。
以後も聖シノド 列聖委員会の調査に従い、新致命者のリストにはより多くの名前が加えられ続けている[ 14] 。
2005年 には、人道的活動に対するロシア連邦賞 の初の受賞者となった[ 15] 。
2007年 4月27日、ロシアの一部メディアによりアレクシイ2世は危篤状態にある、死去したとすら報じられた[ 16] [ 17]
が、これは後ほどデマであることが分かった[ 18] [ 19] [ 20] [ 21] 。
アレクシイ2世は、これらの噂の背景には在外ロシア正教会 とロシア正教会 との間の和解 に水を差すことを意図したものだと声明を出した[ 22] 。
「ご覧のとおり、私は健康です、勤めを果たしています、生きています」と言ったとされている[ 22] 。
高齢にもかかわらず、彼は見るからに健康そうで、活動的に田園生活を楽しんでいた。ロシアテレビにも頻繁に登場し、教会の奉神礼 も執り行い、さまざまな政府官僚とも会っていた。
在外ロシア正教会との関係については、アレクシイ2世指導下のロシア正教会と在外ロシア正教会で和解交渉が進められ、2007年 5月17日モスクワで最終合意文書の締結に至った[ 23] 。
永眠
2008年12月5日、アレクシイ2世はモスクワ郊外のペレデルキノ にある自宅で永眠した[ 24] 。
RIA Novosti によれば、心不全 による死であった[ 25] 。
アレクシイ2世の死に対して、カトリック教皇庁立のキリスト教一致推進評議会 (Pontifical Council for Promoting Christian Unity)議長 ウォルター・キャスパー 枢機卿は、次のような声明を出した[ 26] 。
アレクシイ2世は教区、修道院、教育機関の大きな成長を促進することに尽し、かくも長きにわたり過酷な試練を受けてきた教会に新しい息吹をもたらしたのである。聖下に何度もお会いした折のことを思い出すと、ローマ教皇への好意と、カトリック教会との連携を強めたいという彼の願いを表されるのが常であった。時折困難や緊張が生じることがあったとしても、彼自らがカトリック教会との関係改善に傾注してきたことは疑う余地がない。我々は列に加わりロシア正教会の教義のもとにアレクシイ2世を天なる父の永遠の愛にゆだねよう、それは愛する教会のために長く献身的に尽くしてきた彼の功労に報いることにもなろう。
後任にはキリル1世 が就いた。
私生活
総主教 ・聖シノド 館(聖ダニイル修道院 )
アレクシイ2世は、1950年 4月11日、タリン出身の司祭ゲオルギー・アレクセーエフの娘ヴェーラ・アレクセーエヴァと結婚した[ 27] [ 28] 。
この日は、教会の伝統に照らせば結婚式は禁じられている光明週間 (こうめいしゅうかん)の火曜日にあたっていたが、タリンのローマン主教と花嫁花婿双方の父(二人とも司祭であり、ともにこの結婚を共同執行した)の願いにより、レニングラード府主教グリゴリイから許可(イコノミア) が与えられた。
Moskovskie Novosti は、司祭監察官パリイスキー(Pariysky)がLeningrad Council of Religious Affairsに宛てて書いた告発によれば、この結婚はアレクセイ・リディゲルが輔祭 になってソビエト軍の徴兵に応召しなくてもよいようにするために早められたとしている(正教会では輔祭叙聖のあとでは結婚することはできない)。
1950年 まで、神学生は徴兵猶予を与えられていたが、1950年に制度が変わり、徴兵猶予の対象は聖職者だけとなった。2人は1年後に離婚したが、理由は公表されていない[ 27] 。
アレクシイ2世の自宅は、モスクワ西郊外に位置するルキノ村(ペレデルキノ の近く)にある。敷地内には17世紀の教会や博物館、1990年代後半に建てられた3階建ての家屋がふくまれる。アレクシイ2世は2005年 のインタビュー[ 29] で、Pühtitsa修道院 から引退した修道女たちが屋敷に住み込んで家事の一切を引き受けていると語った。
モスクワ中央部にも執務用の住居があった。19世紀の都市型住居で、1943年9月にスターリンの命令で総主教に引き渡されたものだった。どちらの屋敷も、生活住居であると同時に総主教の執務場所として機能した。2000年1月以降、総主教は装甲車で往復し、連邦捜査員の護衛を受けていた[ 30] 。
公邸は(事務上の機能の問題であまり使われていなかったが)モスクワの聖ダニイル修道院 にある2階建ての1980年代ソビエト風建物だった。
論争
ドイツへの謝罪
1995年、初めてドイツを公式訪問した際に、アレクシイ2世は「ソビエト連邦によりドイツに押しつけられていた共産主義の圧政」について公式に謝罪した。この発言は、ロシア連邦共産党 と国家ボリシェヴィキ党 から、ロシアを侮辱するものと受け止められ、国家への背信であると糾弾される結果となった[ 31] 。
教会内の批判
アレクシイ2世による、他の教派代表たちとの超教派的 対話活動(府主教時代、1964年から、欧州教会会議(CEC)の議長であったこと、あるいは、1987年3月から1990年11月までCEC幹部顧問会議の議長であったこと[ 32] など)[ 33] や、反ユダヤ主義を公式に非難したこと[ 34] などはロシア正教会の一部からの反対にあった。アレクシイ2世総主教は、そのような反対意見を述べる人々は、教会の意見を代表するのではなく、自らの個人的見解を述べているにすぎない、と答えた[ 35] 。
KGBへの協力疑惑
アレクシイ2世はKGBの工作員であったという申し立てが複数の情報源に基づいてなされている[ 36] [ 37] [ 38] [ 39] [ 40] [ 41] [ 38] [ 42] [ 43] [ 44] 。しかしモスクワ総主教庁は、アレクシイ2世がKGB工作員だった事実はないと根気強く否定し続けている[ 45] 。ソビエトの宗教問題会議前議長、Konstanin Kharchevは「聖シノドのメンバーはもちろんのこと、主教候補者にしろその他の高位聖職者にしろ、ソ連共産党中央委員会 とKGB の承認なしにはありえなかったのだ」と説明する[ 43] 。Nathaniel Davis教授は「主教が信者を守りその地位で生き残るためには、KGBやCouncil for Religious Affairsの委員、その他の共産党や政府当局者たちとなんとか折り合っていくしかなかったのだ」と指摘する[ 46] アレクシイ2世は、彼自身も含めてモスクワ総主教庁の主教たちがソビエト政府と妥協していたことを認め、これらの妥協について後悔の念を公式に表明した[ 47] 。
同性愛への反対
アレクシイ2世は、同性愛者の公的活動について断固として反対の立場をとり、ロシアおよび西側の同性愛関係者 の批判を呼び起こした(モスクワにおけるプライド・パレード 開催反対については英語版Moscow Pride を参照)。[ 48] [ 49] [ 50] [ 51] [ 52] [ 53] [ 54]
脚注
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^ 英語版ウィキペディアen:Patriarch Alexy II of Russia#Allegations and criticism 参照。
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^ “Chronology ” (Estonian ). Museum of Laanemaa. 5 December 2008 閲覧。
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^ a b Nathaniel Davis, A Long Walk to Church: A Contemporary History of Russian Orthodoxy, 2nd Edition.(Oxford: Westview Press, 2003),p 86.
^ Zhurnal Moskovskoi Patriarkhii, No. 10 (October), 1990, p.16, quoted in Nathaniel Davis, A Long Walk to Church: A Contemporary History of Russian Orthodoxy, 2nd Edition.(Oxford: Westview Press, 2003),p 284.
^ Nathaniel Davis, A Long Walk to Church: A Contemporary History of Russian Orthodoxy, 2nd Edition.(Oxford: Westview Press, 2003),p 96.
^ Nathaniel Davis, A Long Walk to Church: A Contemporary History of Russian Orthodoxy, 2nd Edition.(Oxford: Westview Press, 2003),p 97.
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^ Патриархия: Алексий II жив, здоров и вернется к исполнению обязанностей уже на майские праздники. NEWSru.com April 27, 2007.
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^ MOSCOW PATRIARCHATE CONDEMNS MEDIA SPREADING RUMORS ON PATRIARCH'S HEALTH Interfax, 1 May 2007
^ PATRIARCH ALEXY II PHILOSOPHIC ABOUT RUMORS OF HIS "DEATH" Interfax, 1 May 2007
^ PATRIARCHAL PRESS SERVICE IDENTIFIES GUILTY IN SPREADING OF FALSE INFORMATION, Religiia v svetskom obshchestve, 3 May 2007
^ WHO ORGANIZED THE PROVOCATIVE RUMORS ON EVE OF 17 MAY?, "Postscript" TV program, 12 May 2007
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関連項目
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外部リンク