アラン・スミシーアラン・スミシー(英: Alan Smithee)は、アメリカ映画で1968年から1999年にかけて使われていた架空の映画監督の名前である。使用停止の年は、公式には2000年となっている[1]。 概要アメリカで、映画制作中に映画監督が何らかの理由で降板してポストが空席になったり、何らかの問題で自らの監督作品として責任を負いたくない場合にクレジットされる偽名である。使用には厳密な規定があり、映画監督からの訴えを受け付けた全米監督協会(Directors Guild of America; DGA)による審査・認定のもとに使用されていた。 アラン・スミシーの起源ハリウッドや独立系などアメリカの映画監督は全米監督協会という労働組合を組織している。映画製作を左右する実権を握る映画会社や映画プロデューサーに比べると映画監督は立場が弱く、全米監督協会を結成してメジャー映画スタジオと対抗することで、映画監督の待遇改善や「映画の作家」としての地位確立の権利を手にした[2]。 勝ち取ってきた権利の中には「映画には監督の名を必ずオープニングクレジットの最後に表示する、オープニング・クレジットが省かれた場合はエンディングで最初に表示する」というものもある[3]。これは映画監督が映画の作品的成功の功労者として認知され、映画における作家主義を確立するために重要な権利だった[4][2]。こうした経緯から全米監督協会は、映画の失敗の責任も監督が負うべきであるとして、協会に所属する監督が勝手に映画からクレジットを外すことを許可していない[2]。アラン・スミシーという偽名が導入された1968年より前は、プロデューサーや主演俳優らが自分の名前を監督としてねじ込むことを防ぐため、監督が偽名を用いることも許可していなかった[1]。 唯一監督名を外せるのは、会社やプロデューサーらにより監督の意図しないほどの編集を加えられるなどして、監督の手から映画が奪われ、映画の失敗の責任を監督に問えない状態になるときであり、この場合にかぎり協会は監督からの訴えを審査のうえ、映画会社に対して監督名に代わり「アラン・スミシー」という偽名を使用するよう要請していた[2]。また協会はスミシー名義を使った監督個人に対し、監督名のクレジットを拒んだ理由を決して口外しないよう要請していた[4]。 最初にその名が監督名としてあらわれた映画は1969年に公開された『ガンファイターの最後』(Death of a Gunfighter)である。 『ガンファイターの最後』撮影中、主演のリチャード・ウィドマークは監督のロバート・トッテンと意見が対立し、監督をドン・シーゲルに代えさせた。しかし映画の完成後、トッテンもシーゲルも監督としてクレジットされ責任を負うのを拒んだ[4]。両監督からの訴えを受けた全米監督協会は調査の結果、どちらの監督の意図もこの映画の創作に生かされなかったことについては同意した[1]。しかし「映画には監督の名を必ずクレジットする」という協会と映画会社との約束がある以上、監督たるべき人物がいないとなると何らかの偽名をクレジットするしかない。 Alan Smitheeは "The Alias Men" (偽名の人々)のアナグラムであると説明されることもあるが、実際には次のような経緯で決められた。当初、製作者たちは「アル・スミス」(Al Smith)という架空の人物をクレジットしようとしたが、全米監督協会はすでに同名の監督がいるとして反対した。協会はアレン・スミス(Allen Smithe)という偽名を逆提案したが、そのような名の人物が将来映画監督として登場する可能性を考慮し、最終的に、実在しなさそうな人名で、なおかつ珍名として目立つことのない名前として、「アラン・スミシー」に決定した[4]。しかし『ガンファイターの最後』は批評家から賞賛され、『ニューヨーク・タイムズ』はスミシーが実在しない人物だと気付かずに「監督のアラン・スミシーは表面をさっと描写してその背後の細部を取り出す器用な才能を持っている」という評を掲載した[5]。 1968年に完成していたジャド・テイラー監督の『夏の日にさよなら』は、試写会の段階ではテイラー名義で公開されたものの、結果的にお蔵入りになっていた。全米監督協会はこの作品にも遡及的にこの偽名の適用を許可し、1973年11月8日に『CBSレイト・ムービー』でテレビ放映された[6][7]。 アラン・スミシーの終焉とその後当初は無名の人物だったアラン・スミシーは、様々な映画にクレジットされるようになったが、やがて映画マニアなどの間で「アラン・スミシーは映画にトラブルが起きたときの偽名」ということが次第に知られるようになり、偽名としての意味を失っていった[3]。「アラン・スミシー」はテレビドラマ、ミュージックビデオ、書籍など、映画以外の分野でも、責任者の降板などの際に使われるようになった。 1997年、コメディ映画『アラン・スミシー・フィルム』(An Alan Smithee Film: Burn Hollywood Burn)の中で、アラン・スミシーという名が題材に取り上げられた。さらにこの映画にも編集権をめぐる争いが起きて映画自体がアラン・スミシー名義となり、ゴールデンラズベリー賞を獲ったことが面白おかしく報じられた。これらのことで、全米監督協会はこの偽名の使用をやめることになった[1]。 スミシーの使用中止に影響を与えた可能性のあるもうひとつの事件は、『アメリカン・ヒストリーX』公開の際、監督のトニー・ケイがスミシー名義の使用を求めて却下された事件である。スミシー名義使用に当たっての規則には、自分の名義を映画から外す理由を、監督が公に向かって語ることを禁じるというものがある。再編集を巡り主演のエドワード・ノートンらとの間で起きた争いについて、監督のケイはすでにマスコミに語ってしまっていたためにスミシー名義の使用は不可能だったが、ケイはスミシー名義の使用を許可しなかった件で全米監督協会や映画会社を訴えてニュースとなった。 2000年以降、全米監督協会は個々の案件について、毎回異なった偽名を選ぶようになっている。その最初の例は、2000年のSF映画『スーパーノヴァ』である。これはウォルター・ヒルが途中まで手掛けたものの降板し、フランシス・フォード・コッポラ、ジャック・ショルダーら後任の監督も相次いで降板したといういわくつきの映画であり、もはや監督が特定できないため、「トーマス・リー」(Thomas Lee)という架空の人物が監督としてクレジットされた[1]。 ただし、カナダなど合衆国国外で製作されたいくつかの映画やドラマなどでは、まだアラン・スミシーという偽名を使っている場合もある。 主なアラン・スミシー名義の作品
その他、『デューン/砂の惑星』(デヴィッド・リンチ)、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(マーティン・ブレスト)、『ヒート』(マイケル・マン)のテレビ放送用再編集版、『ジョー・ブラックをよろしく』(マーティン・ブレスト)の機内放送用再編集版など、劇場公開版より短く編集されたテレビ放送版では、元の監督の納得できる編集がなされなかったという理由から、アラン・スミシー名義にされた場合がある。 日本におけるアラン・スミシー
本来の用例日本映画でアメリカにおいて本来の用法によるアラン・スミシー名義が用いられた作品には、以下の例がある。
アニメ業界での使用例1998年頃から、日本でもいくつかのアニメ作品でアラン・スミシーが見られるようになった。『銀盤カレイドスコープ』の最終回で登場[8]した際には「日本のTVアニメでは異例中の異例」[要出典]とされたが、以降もちらほらとアラン・スミシーが現れている。アメリカ映画におけるアラン・スミシーと同様に、諸事情で作品の品質が維持できなくなった場合に、監督が降板したり、自分の名前を出すことを拒んだりした場合に用いられている[3]。 ただし、この場合の日本の作品は全米監督協会とは何の関連もないため、前述の『カレイドスコープ』を除き直接的に「Alan Smithee」と表記されることはほとんどなく、弄られた名前が使われている。漢字表記を当てた名前である場合が多い[3]。
なお、制作現場のトラブルや切迫した状態とは関係なく、会社間の関係や契約の都合などにより担当者の名前を表立って出せない場合に、一種の代用ペンネームとして用いられた事例も存在している(参考:阿藍隅史)。 アラン・スミシーをもじったペンネーム
派生的用例
参考事例:名義の不表記
参考事例:同様の事態における「アラン・スミシー」以外の偽名
脚注
関連項目
外部リンク
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