アメリカ大陸の脱植民地化
アメリカ大陸の脱植民地化(アメリカたいりくのだつしょくみんちか、英: Decolonization of the Americas)は、アメリカ大陸の諸国がヨーロッパ諸国の支配を脱して独立を勝ち取った過程を言う。脱植民地化は18世紀後半と19世紀初期から半ばまで続いた一連の革命で始まった。その後はキューバが米西戦争の渦中に独立を果たした以外、1世紀以上も大きな変化が無かった。 20世紀の後半はヨーロッパ植民地帝国が自発的に引き上げる形での平和的独立が普通の形になった。しかし、北アメリカ、特にカリブ海の諸島にはまだ多くのイギリスとオランダの植民地が残っており、さらにアメリカ合衆国はプエルトリコとバージン諸島を所有している。フランスは海外県としてそれまでの植民地の大半を「統合」してきた。 アメリカ合衆国→詳細は「アメリカ合衆国の独立」を参照
アメリカ大陸で最初の独立主権国家は現在のニューハンプシャー州であり、1776年1月5日付け成文憲法によりイギリスからの独立を宣言し、その6か月後のアメリカ独立宣言でアメリカ合衆国を結成した最初の13州の1つになった。 アメリカ合衆国は1776年7月4日にイギリスからの独立を宣言した。当時はイギリス13植民地のうちの12と独立国家としてのニューハンプシャーが合流する形になった。アメリカ合衆国の独立は1783年のパリ条約で認知された。 スペインの植民地アメリカ大陸のスペイン植民地は19世紀の第1四半世紀の間にその独立を勝ち取った。半島戦争の間の1810年以降、スペイン国王フェルナンド7世の名で幾つかの国の「クリオーリョ」が国を統治する議会を起ち上げた。自治政府の経験に、自由主義とフランス革命やアメリカ独立の概念に影響され「リベルタドーレス」が率いる独立への戦いが始まった。植民地の多くは、スペインの貿易独占を排除し政治的な影響力を持とうとするイギリス帝国の支援で、自らを解放した。 南アメリカではシモン・ボリーバルとホセ・デ・サン・マルティンが独立闘争の最終段階を率いた。ボリバルはこの大陸のスペイン語圏を政治的に一つに纏めようとしたが、諸国は急速に他とは独立した形を取り、三国同盟戦争(パラグアイ対アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイ)や太平洋戦争(チリ対ボリビア・ペルー)など幾つかの戦争が続いた。 スペインの北アメリカや中央アメリカの植民地でも関連した動きが起こった。メキシコ独立革命やそれに関連する戦いである。メキシコの独立はアグスティン・デ・イトゥルビデと「三つの保証軍」の連衡で1821年に達成された。この統合はメキシコ第一帝政の間、短期間続いたが、10年の間に幾つかの国家に分裂した。 ポルトガルの植民地ポルトガル王国の植民地はスペインとは異なり、細かく分かれてはいなかった。彼等が作り上げたカピタンス制はサルバドールの中央政権に臣従し、サルバドールはリスボンの王室に直接報告していた。このために「ポルトガル領アメリカ」と呼ぶのは希であり、当初から統一された植民地としてブラジルと呼ぶのが普通だった。ナポレオン戦争期には王室そのものがリスボンからリオデジャネイロへ遷都している。 この結果、ブラジルは1822年に独立したときも分裂しなかった。ブラジルが主権国家として最初の60年間は連邦共和国ではなく君主制を採用したことも、国の統一を維持することに貢献した。 ポルトガル国王ドン・ジョアン6世の息子ドン・ペドロ1世(ポルトガル王ペドロ4世)が1922年にブラジル帝国の独立を宣言し、初代皇帝になった。これはポルトガル王室からも平和的に認められたが、ポルトガル軍と市民の間で幾らかのゲリラ戦が起こった。ポルトガルはブラジルの独立をその3年後に賠償金付きで承認した。 カナダ1867年7月1日、カナダはイギリス帝国の一自治領(ドミニオン)になった。この時点のカナダ自治領にはアッパー・カナダ(現在のオンタリオ州)とローワー・カナダ(現在のケベック州)、ノバスコシアおよびニューブランズウィックが含まれていた。1871年にはブリティッシュコロンビア、1873年にプリンスエドワード・アイランド、1949年にはニューファンドランドが連邦に加盟した。イギリスは1870年にルパート・ランドと北西領土をカナダに割譲した。1931年、カナダ政府はノルウェーから北極海のスベルドラップ諸島を獲得した。このとき、極地探検家ロアール・アムンセンが1908年から1909年に北極点にノルウェー国旗を立て、領有を主張してから20年以上が経っていた。ここまでの独立はイギリス領北アメリカ植民政府間の交渉(シャーロットタウン会議やケベック会議)という完全に政治的手段で達成された。ただし1837年から1838年にアッパー・カナダとローワー・カナダで武力による独立の試みがなされたが、どちらもイギリス当局によって鎮められた。1869年に起こったレッド川反乱はルパーツランドの移譲を遅らせることになった。この反乱は独立と自治を求めたが、カナダ政府によって鎮圧され、王立カナダ騎馬警察を創設する要因になった。これと同じ地域で1885年の北西反乱が起こったが、反乱軍はカナダ軍と騎馬警察に抑えられた。ブリティッシュコロンビア州では、多くの先住民政府はカナダの主権を認知しようとしていないので、様々な先住民族の領土が移譲されずに論争が続いている。ブリティッシュコロンビア州内で正式に処理が決まった地域はビクトリア近くの小さな集合、ナス川に隣接するニスガ族の土地、および北東部の第8条約の土地である。 ニューファンドランドも1907年9月26日に自治領となったが、自治権の返上を経て、1949年にカナダ連邦に加盟したときにこの状態は取って代わられた。 1867年から1931年までイギリスは外交政策を変えなかった。1931年のウェストミンスター憲章によって、カナダに支配権が移った。しかし1867年のカナダの基本法であるイギリス領北アメリカ植民法の修正には、イギリス議会の正式な承認が求められた。1982年のカナダ法の成立により、母国との正式な法的関係が作られ、カナダはロンドン政府からの完全な独立を認められた。 米西戦争1898年、アメリカ合衆国は米西戦争に勝利してキューバとプエルトリコを占領し、アメリカ大陸におけるスペインの領土支配を終わらせた。それでも20世紀初期にスペインの貧民や政治的追放者が移民となって以前の植民地、特にキューバ、メキシコおよびアルゼンチンに流れ出た。1970年代以降はこの流れが反転した。1990年代、レプソルやテレフォニカのようなスペインの会社が南アメリカで投資し、民営化された会社を買収することも多かった。 20世紀20世紀になってから独立を達成した諸国
現在でも主権国家ではない領土現在でもヨーロッパ諸国に管理されているアメリカ大陸の地域
さらに、元スペイン植民地のプエルトリコと元デンマーク領西インド諸島(現在名はアメリカ領ヴァージン諸島)はアメリカ合衆国の未編入領土となっている。 アメリカ大陸に残っている主権国家ではない領土は選択によってその状態を保っており、ある程度の自治が許されている。それでも国際連合非自治地域リストに載っているものがあり、議論の対象になっている。例えば、アルバは1986年1月1日にオランダ領アンティルから分離し、オランダ王国の別の自治を行う一員になった。1996年まで続いた完全独立を求める運動も1990年のアルバの要請で止められた。フランス領ギアナ、グアドループ、およびマルティニークはフランスの植民地と考えられていないが、フランスの海外県としてフランス本国に組み入れられている。グリーンランドは1979年に自治政府を樹立し、ECからも離脱した。現在のグリーンランドは、高度な自治を擁し自立傾向にある。 年譜
脚注注釈
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