アウグステ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ
アウグステ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ(ドイツ語: Auguste Ferdinande von Österreich-Toskana, 1825年4月1日 - 1864年4月26日)は、トスカーナ大公女で、バイエルン王国の摂政ルイトポルトの妃。最後の国王ルートヴィヒ3世の母。 イタリア語名はアウグスタ・フェルディナンダ・ダズブルゴ=ロレーナ(Augusta Ferdinanda d'Asburgo-Lorena)。 生涯1825年、フィレンツェで生まれる。トスカーナ大公レオポルド2世が最初の妃マリア・アンナとの間に儲けた3姉妹の次女で、夭折せずに成長した唯一の娘だった。最後のトスカーナ大公フェルディナンド4世は異母弟にあたる。フランス王ルイ14世とイングランド王ウィリアム征服王の直系の系統の1人である。 厳格なカトリック教育を受けた後、若いうちから芸術と科学に興味を持った。同時代の人々からは、背が高くて美しく、自意識が高いと言われていた。 1844年4月15日、フィレンツェでバイエルン王子ルイトポルトと結婚した。結婚前すでにアウグステに肺結核の症状が出ていた事から、ルイトポルトの父のバイエルン王ルートヴィヒ1世は当初この縁談に反対した(最終的にこの病気により39歳で亡くなった)。 ルイトポルトとは後のバイエルン王ルートヴィヒ3世を含む4人の子女を儲けた。子ども達とはいつもイタリア語で話した。 アウグステは政治活動の面でルイトポルトを良く支え、1848年革命の際には、反ローラ・モンテス派にまわり、その上で共和制主義者側を孤立させようと動いた。 1864年4月、肺結核のために39歳で死去した。遺体はミュンヘンのテアティーナ教会納骨堂に埋葬された。ルイトポルトは再婚せず、娘テレーゼと妹アーデルグンデが家事を取り仕切った。 アウグステの死後、ルイトポルトはバイエルン王国の摂政となった。 子女
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