たねや
株式会社たねやは、滋賀県近江八幡市にグループ本部を置く日本の菓子製造・販売と飲食のグループ企業である。 概要創業地、本店は滋賀県近江八幡市。元々は和菓子店であるが、洋菓子の製造・販売にも力を入れており、バームクーヘンの「クラブハリエ」が有名であるほか、フランス菓子専門店「オクシタニアル」、洋菓子道具専門店「ボンヌ シャンス」を展開している。 2000年8月からの滋賀大学・滋賀県立大学との産学協同研究(滋賀大とは近江商人史の協同研究、県立大とは病人・高齢者向け和菓子の共同研究)やNPO法人「たねや近江文庫」の設立(滋賀大との協同研究の発展。2004年11月から)、和菓子業界初のグリーン購入ネットワークへの加入(1998年)、加工ロスとなったバームクーヘンなどの養豚用飼料化(2001年から)、グループ本社での太陽発電導入(2007年3月)など、文化活動や環境保全活動にも積極的で、1995年に日本経済新聞社主催国土庁後援の「地域活性化貢献企業賞」、2006年には「第1回滋賀CSR経営大賞」、2007年に「第5回渋沢栄一賞」を受賞している。また1999年からネット通販を開始するなどIT社会への対応も早く、2001年に経済産業省「平成13年度情報化促進貢献情報処理システム表彰」「情報化月間推進会議議長表彰」と「関西IT活用企業百撰」最優秀賞を受賞している。 歴史元は江戸時代に材木商を生業とした家系で、のち近江国蒲生郡八幡池田町で、穀物類・根菜類の種子を商う「種屋」を創業した。1872年(明治5年)、7代目山本久吉が京都の和菓子店「亀末」で修行を積み、栗饅頭と最中を製造販売する和菓子店に商売替えし、屋号を「種家末廣」とした(のち「種家」に改称)。1921年(大正10年)、東京「塩瀬総本家」で修行を積み宮内省大膳寮に2年奉職していた8代目山本脩次が種家2代目を継承。物資不足の太平洋戦争直後には栗饅頭が人気を博し、たねやの基本づくりとなった。 明治末期から昭和初期にかけて、種家の近所にはアメリカ人実業家のウィリアム・メレル・ヴォーリズが住んでいた(池田町洋館街)。ヴォーリズの勧めで脩次は1951年(昭和26年)10月に洋菓子の製造を開始し、これがのちのクラブハリエの基となった。 1958年(昭和33年)8月に種家は有限会社「たねや菓舗」に改組し、脩次が代表取締役社長に就任した。脩次は1966年(昭和41年)9月に死去し、長男の傳一が有限会社たねやの社長に就任。その後、1967年(昭和42年)2月の近江八幡駅前への出店を皮切りに、1972年(昭和47年)8月に株式会社「たねや」を設立、次男の徳次が社長に就任した。1976年(昭和51年)6月に大津西武に百貨店初進出、1984年(昭和59年)には東京営業所(現・東京支店)を開設して日本橋三越本店と銀座三越に県外初進出を果たすなど、滋賀県を代表する菓子メーカーに成長し、2011年に株式会社は徳次の長男・昌仁が代表取締役社長に就任している。徳次は代表権のある会長に就任(2015年1月現在、名誉会長)。 1979年(昭和54年)7月の洋菓子部門株式会社「ボン・ハリエ」(1995年4月にクラブハリエに改称)設立以降、グループ会社化が進み、2006年(平成18年)にはグループ本部を近江八幡市から愛知川町(現・愛荘町)に移転。2016年(平成28年)には本部を近江八幡市に再度移転した。2006年には渋沢栄一賞を受賞している。 グループ企業
主力商品
店舗
たねやアカデミー(旧:たねや菓子職業訓練校)優秀な菓子職人育成のため、職業能力開発促進法に基づく認定職業訓練による職業能力開発校である。1998年に滋賀県知事より認定された。 テレビ番組
その他
書籍参考書籍
脚注
参考文献
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia