リヴァー・ジュード・フェニックス (英 : River Jude Phoenix 、旧姓: ボトム/Bottom、1970年 8月23日 - 1993年 10月31日 )はアメリカ合衆国 出身の映画俳優 [ 1] 。
生涯
幼少期
1970年8月23日カトリック教徒 で大工の父、ジョン・リー・ボトムとハンガリー 系=ロシア 系正統派ユダヤ教 徒の母、アーリン・ドュネッツ(別名:ハート・フェニックス)との間に、5人の子のうちの長男として、1970年8月23日アメリカ合衆国オレゴン州 マドラス の地にリヴァー・ジュード・ボトムという名で誕生した[ 2] [ 3] 。ヘルマン・ヘッセ の『シッダールタ 』で出て来る「川」がリヴァーという名の由来とされる。ミドルネームはビートルズ の歌「Hey Jude」が由来である。
1973年に家族でカルト 宗教団体 「神の子供たち」(現在のファミリー・インターナショナル )に入り、両親が宣教師 となったことで、幼少の頃は南アメリカ の各地を転々とする生活であった。
1977年、家族は神の子供たちから離脱して帰国、カリフォルニア州 のロサンゼルス に移る。灰から甦るフェニックス のように、自分たちの新しい人生への再生の意味を込め、家族で本姓自体をフェニックス(Phoenix)に改めた[ 3] [ 4] [ 5] 。
家庭は貧しく、妹と共に、路上でパフォーマンスをして生活費を稼いでいた。リバーが『スタンド・バイ・ミー 』で有名になって、初めてフェニックス家は車を買うことができた。
俳優へ
リヴァー・フェニックス
リヴァー・フェニックス 1989年3月
母がNBC の職に就いたことで10歳にして初めてテレビに出演。広告やテレビシリーズの仕事を経て、1985年、『エクスプロラーズ 』で映画俳優としてのデビューを飾った。
翌1986年には映画『スタンド・バイ・ミー 』への出演で注目を集める[ 3] [ 4] 。
1988年出演の『旅立ちの時 』でアカデミー助演男優賞 にノミネートされるなど、数多の映画への出演をもってスターダムへの階段を駆け上がっていった。
1991年配給の『マイ・プライベート・アイダホ 』ではヴェネツィア国際映画祭 の男優賞を受賞。代表作とされるこの作品での演技は俳優仲間にも評判が良かったという。
死について
ザ・ヴァイパー・ルーム
1993年、弟のホアキン と共に訪れたウェスト・ハリウッド でジョニー・デップ が経営しているナイトクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム 」の入口付近にて、ヘロイン とコカイン の過剰摂取 が原因で倒れ、病院に搬送されるが心不全 で死去した[ 6] 。
当時、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ を一時脱退していたジョン・フルシアンテ とはドラッグ仲間で、死の直前にも共にヘロインなどを摂取していた。倒れて搬送される際には、親友であったフリー が救急車に同乗し、彼の最期を看取った。
フロリダ州 で散骨 されたため墓 はない。ファンは最期の地であるザ・ヴァイパー・ルームを弔問することが多い[ 6] [ 7] 。
遺作
2012年9月、未完成のままお蔵入りされていた遺作『ダーク・ブラッド 』(1993年)が、ジョルジュ・シュルイツァー 監督の地元オランダ でプレミア上映された[ 8] 。
『ダーク・ブラッド』を完成させたあと、予定ではすぐに『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア 』のインタビュアー役を演じることになっており、11月30日から登場するシーンの撮影を始めることになっていた。リヴァーは生前、アメリカ の『プレミア』誌で、インタビュアーの役について「吸血鬼 にあまり興味がわかないんだ。救いなのはインタビューする方で客観的に見ていられることだね。」と語っていた。また、ニール・ジョーダン の脚本も、原作者アン・ライス の筋書きも、殺しと同じくらいエロティックさを強調していることで、「エロティックなシーンと血まみれのシーンとが背中合わせって言うのが不気味だよ。吸血鬼の世界ではそれがセクシーなんだろうね。」とも語っており、単なるセックスシンボル と見られることを非常に嫌っていたようである。リバーの死後、この役は代わってクリスチャン・スレーター が演じることとなった。
家族・交友関係
弟であるホアキン・フェニックス は、1990年代後半以降は俳優として成功している。ホアキンが初めて主役級の役を得たのは1995年、ガス・ヴァン・サント 監督の『誘う女 』で、ニコール・キッドマン と共演した。また、『Her/世界でひとつの彼女 』で共演し、2016年に結婚したルーニー・マーラ との第一子には、リヴァーと名付けた。妹のレイン・フェニックス もヴァン・サント監督の映画『カウガール・ブルース 』に出演。一番下の妹である女優サマー・フェニックス は、俳優ケイシー・アフレック (ベン・アフレック の弟)と2006年に結婚している。
プライベートではマーサ・プリンプトン 、サマンサ・マシス と交際していたこと、『殺したいほどアイ・ラブ・ユー 』や『マイ・プライベート・アイダホ 』で共演したキアヌ・リーブス と特に親しかったことは有名。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ のメンバーとは親交が深く、「ブレイキング・ザ・ガール」のMVにカメオ出演している。アルバム『ワン・ホット・ミニット 』収録の「トランセンディング」は、アンソニー・キーディス とフリーがリバーを追悼するために作った。
エピソード
イギリス のロックバンドXTC の大ファンであったという[ 9] 。
亡くなる年(1993年)の夏に『Jack and Jill 』[ 注 1] のAdam 役での出演を監督のアニエスカ・ホランド へ要望していた[ 11] 。
「神の子供たち」
リヴァーは幼い頃からヒッピー である両親に連れられて各地へ飛んだが、このとき両親の考え方からカルト 教団「神の子供たち」(現在のファミリー・インターナショナル )への参加を余儀なくされた。この教団は、大人、子供に限らずセックス を奨励していたため、教団に所属していた幼児同士もセックスをしたという。リバー自身もこれに参加したことを認めており、この出来事がその後の性に対する混乱を招いたと語る。また早くして性経験をしたために将来の自分を変にしてしまうのではないかと悩んでいた時期もあった。
1991年11月の雑誌『Details 』のインタビュー で、「神の子供たち」に居た頃、リヴァーは4歳の時に童貞喪失 をしたと述べた。雑誌で「でも、それをさせないようにした。10歳から14歳までは、そのようなことは一切していない(禁欲的だった)」と言う言葉を引用した[ 12] 。リバーの事務所代表は、リバーに対し「冗談だった」と発言を撤回するよう圧力を掛けたと報じられている。
1994年、雑誌『エスクァイア 』は「あいつらは気持ち悪い…あいつらは人の人生を駄目にしている」と、怒りながらカルト (ファミリー・インターナショナル )のことを話すリバーの言葉を引用した[ 13] 。
ヴィーガン
リヴァーのヴィーガン/ヴィーガニズム (完全菜食主義 者)としての生き方は両親の信念に基づいている。かつて父ジョンと母アーリンが「神の子供たち」(ファミリー・インターナショナル の旧名)でおこなわれている性的虐待 行為に嫌気が指したあとに目指したものが、ヴィーガンとしての生き方であった。
リヴァーは生涯ヴィーガンとしての生き方をつらぬき、飼い犬までにヴィーガンを徹底しているという本人のインタビューが残っている。
エピソードとしては、ガールフレンドだった女優のマーサ・プリンプトン がレストラン でアメリカンクラブハウスサンド を注文したとき、リヴァーは失望して泣き出してしまったという。また、『スタンド・バイ・ミー』の宣伝のために来日した際に、入った蕎麦 屋の蕎麦つゆに鰹節 が使われていることを知り、思わず箸を置いたという出来事を『笑っていいとも 』で語った。
麻薬中毒
反麻薬活動をおこなっていたリヴァー自身が、急性麻薬中毒 で倒れたという出来事は大々的に報道 された。検事 が詳細な解剖結果を公表したことで、リヴァーが麻薬 を使用したという事実を今や誰も否定できなくなってしまった。一方、その後しばらく続いた取材・報道から、彼の生い立ちが次々と明らかになったということもある。
リヴァーが死に至る以前から麻薬を使用していたという事実は、周囲の目撃証言、彼の体調の変化からほぼ確定的と言ってもよい。最も早いものでは、『スタンド・バイ・ミー』の共演者であるコリー・フェルドマン が映画の撮影中に、リヴァーが楽屋でマリファナを吸っていて彼がハイになっているのを見たという話がある(当時コリーもマリファナ を使用していたと本人は語る)。ただ、この件に関してはリヴァーはその場で「自分のものではない」と否定している。
主な出演作品
映画
テレビドラマ
公開年
邦題 原題
役名
備考
1984
セレブリティーCelebrity
ジェフィー(11歳)
ミニシリーズ
1985
アーサー・ヘイリーの ホテルHotel
ケヴィン
1エピソード、クレジットなし
ファミリータイズ Family Ties
ユージーン
1エピソード
脚注
注釈
出典
外部リンク
英語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります。
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