第2代シャノン子爵 (英語版 ) リチャード・ボイル (英語 : Richard Boyle, 2nd Viscount Shannon PC (Ire) 、1675年 – 1740年 12月20日 ) は、グレートブリテン王国 の将校 で政治家 である。
ウィリアマイト戦争 におけるボイン川の戦い や大同盟戦争 におけるネールウィンデンの戦い に少尉 として従軍し、スペイン継承戦争 におけるビーゴ湾の海戦 では手榴弾旅団 を指揮した。この戦いにおいて、フランス元帥 フランソワ・ルイ・ルスレ・ド・シャトールノー (英語版 ) 率いるフランス艦隊と、ガレオン船 や輸送船から成るマニュエル・デ・ベラスコ・イ・テハーダ (英語版 ) 率いるスペイン艦隊を壊滅させるという活躍を見せた。その3年後にはバルセロナ 襲撃に参加した。ボイルは1720年代から30年代を通じてアイルランド王国陸軍 (英語版 ) の最高司令官 (英語版 ) を務めた。
経歴
前半生
スペイン継承戦争 におけるビーゴ湾の海戦
リチャード・ボイル(1640年頃生まれ)と、エリザベス・ボイル(ベスバラのポンソンビー卿の娘で、旧姓はポンソンビー)の子として1675年に生まれた。オックスフォード大学 で学び[ 1] 、その後義勇兵としてウィリアマイト戦争 に従軍し、1690年7月に第2代オーモンド公ジェームズ・バトラー 傘下でボイン川の戦い に参加した。これが初陣であった[ 2] 。1693年7月には、大同盟戦争 における戦いのひとつ、ネールウィンデンの戦い に従軍したが、負傷して敵方の捕虜となった[ 2] 。翌1694年2月16日にオーモンド公傘下の近衛騎兵連隊 (英語版 ) の少尉 に任命され、同時に陸軍の中尉 (英語版 ) に任命された。1697年にはそれぞれ中尉と少佐 に昇進した[ 2] 。
1699年に父方の祖父フランシス・ボイル から、シャノン子爵を承継した[ 3] 。1702年2月にはデンマーク のジョージ王子海兵連隊の大佐 になり、同年10月のスペイン継承戦争 におけるビーゴ湾の海戦 で手榴弾旅団 を指揮した[ 2] 。この戦いにおいて、フランス元帥 フランソワ・ルイ・ルスレ・ド・シャトー=ルノー (英語版 ) 率いるフランス艦隊と、マニュエル・デ・ベラスコ・ジェ・テハーダ (英語版 ) の率いるガレオン船 ・輸送船から構成されるスペイン艦隊を殲滅した。ビーゴでの戦績とフランス艦隊の撃破をアン女王 に報告するため、イギリスに帰還し[ 2] 、女王より1,000ポンド の報奨金を授与された[ 1] 。ところが1703年1月、ピカデリー のセント・ジェームズ教会での不道徳的な活動に関与していたとして告発された[ 1] 。
1704年に准将 に昇進したボイルは、1705年にバルセロナ 襲撃作戦に参加し、成功裡に終わった。彼は再びその報告のためにイギリスに帰還し、アン女王から再度報奨金を授与された。1708年には少将 に昇進し、その年に陸軍共同管理官に就任した[ 1] 。また同年、アランデル選挙区 (英語版 ) 選出の庶民院 議員となった[ 2] 。ボイルはしばらくの間、ロンドンにあった政治的クラブのキット・キャット・クラブ (英語版 ) に参加していたが、ここで彼はイギリス首相 や初代スカーバラ伯爵リチャード・ラムリー といった有力者と接触する機会を得ることができ、またスカーバラ伯爵からは議会における候補者として推薦を受けた[ 1] 。この当時ボイルは「きわめて素晴らしいその会話の中に、誠意と率直さが見て取れる」と評されていた[ 4] 。議会ではホイッグ党 を支持し、ヨーロッパ大陸から亡命したプロテスタントがグレート・ブリテン王国 に入国するのを許可する、1708年外国人プロテスタント帰化法 (英語版 ) に賛成票を投じた[ 1] 。
1709年、ボイルは中将 に昇進した。その年の終わりドーバー城 の副知事 に就任し、1710年にはヌーベルフランス を攻撃する極秘遠征の指揮官に任じられたが、結局この遠征は失敗に終わった[ 1] 。スカーバラ伯爵 は既にアランデル選挙区の立候補者を指名する立場ではなくなっていたため、同年ボイルはアランデル選挙区からハイス選挙区 (英語版 ) に鞍替えし、 ドーセット公爵 の指名を受けて立候補した[ 2] 。議会ではホイッグ党の方針に従い、1710年3月、党を批判した聖職者であるヘンリー・サシェヴァレル (英語版 ) の弾劾に賛成投票を行った[ 1] 。
後半生
アシュリー・ハウス (英語版 ) ジョン・プレストン・ニール (英語版 ) 作、1818年
1715年1月、シャノン子爵歩兵連隊 (英語版 ) の大佐 になり、同年の暮れ頃に再び選挙区をハイス選挙区からイースト・グリンステッド選挙区 (英語版 ) に鞍替えした[ 2] 。1716年にアイルランド王国 における王国陸軍の参謀の1人となった[ 5] 。
1720年、アイルランド王国陸軍 (英語版 ) 最高司令官 (英語版 ) に就任し、1740年に亡くなるまでその地位を保持し続けた[ 2] 。1721年6月、ボイルはリチャード・ウェアリングからキングス・カラビニアーズ連隊 (英語版 ) 大佐の称号を7,500ポンド で買い取った[ 6] 。
同年、アイルランド枢密院 (英語版 ) の枢密顧問官となり、翌1722年にはアイルランドにおける控訴院裁判官 (英語版 ) の1人に任じられた[ 1] 。また同年コーク市 の名誉市民に選ばれた。
1727年3月、ボイルは第4騎兵中隊 (英語版 ) 隊長に就任し[ 1] 、1735年12月18日は騎兵大将 に昇進した[ 7] 。1737年にはポーツマス知事 (英語版 ) の座に就き[ 1] 、1739年6月17日には陸軍元帥 に昇進した[ 8] 。
ボイルは1740年12月20日、ウォルトン・オン・テムズ (英語版 ) の自宅、アシュリー・パーク (英語版 ) で逝去した。遺体はウォートン・オン・テムズのセントメアリー教区教会 に埋葬された[ 3] 。教会には彼の記念碑が設けられている[ 9] 。ボイルには子供がいなかったため、シャノン子爵位は彼の死をもって廃絶した。
家族
1704年6月6日、ボイルは第6代ドーセット伯爵チャールズ・サックヴィル (英語版 ) の非嫡出子 で第3代オーラリー伯爵ライオネル・ボイル (ボイルのはとこ ) の未亡人だったメアリー・サックヴィルと結婚した。メアリーは子供を産むことなく、12年後に亡くなった[ 3] 。その後1720年1月、カンブリア 、ネザーホールのジョン・センハウスの娘、グレイス・センハウスと結婚した。夫妻は娘一人 (後のミドルセックス伯爵夫人グレース・サックヴィル (英語版 ) ) をもうけた[ 3] 。
系譜図
出典
^ a b c d e f g h i j k Hayton, D. W. (2002). "BOYLE, Richard, 2nd Visct. Shannon [I] (c.1675-1740), of Shannon Park, co. Cork" . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年2月7日閲覧 。
^ a b c d e f g h i Heathcote, Tony (1999). The British Field Marshals 1736–1997 (英語). Pen & Sword Books. p. 52. ISBN 0-85052-696-5 。
^ a b c d "Boyle Family Genealogical Entry" (英語). 2007年6月7日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年4月21日閲覧 。
^ Budgell, Eustace (1732). Memoirs of the Life and Character of the Earl of Orrery and of the Family of the Boyles (英語). London. p. 258.
^ Lawson, J. B. (1970). "BOYLE, Richard, 2nd Visct. Shannon [I] (c.1675-1740), of Ashley Park, Walton-on-Thames, Surr." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2023年2月7日閲覧 。
^ Barnard, Toby (2004). A New Anatomy of Ireland: The Irish Protestants, 1649–1770 (英語). Yale University Press. p. 185. ISBN 978-0300101140 。
^ "No. 7464" . The London Gazette (英語). 16 December 1735. p. 1.
^ "No. 7823" . The London Gazette (英語). 14 July 1739. p. 1.
^ Malden, H. E., ed. (1911). "Parishes: Walton on Thames" . A History of the County of Surrey (英語). Vol. 3. London: Victoria County History. pp. 467–475. British History Onlineより。
外部リンク