Wikipedia‐ノート:無意味な記述Muyoさんの御指摘「独断で安易に方針文書を変えてはいけません」は理解しました。しかしながら、無意味な記述か貧弱な記述かに関わらず、このWikipediaにまず削除ありきでバッサリと処断する快感に酔っているような人(削除厨)が蔓延し、不足のある記述を目に留めた人が「有意義な記事に補強できないだろうか?」と考えようともしない思考停止体質がこの方針から来るのか・・・と思うと、ある意味納得できます。少なくとも選択肢として「優れた記述で置き換える」があるのなら、それを上位に置くのが記事の充実を意図する姿勢ではないのでしょうか?(その方針は等価並列だと言っても、やはり通常は上下に順位を感じるでしょう)まずはMuyoさんのお考えをお聞きしたいと思いますが。61.199.138.45 2010年7月10日 (土) 02:32 (UTC)
私の感想について考えていただく事を求めません。聞き方が不適切でした。muyoさんは、無意味な記述とか貧弱な記述を見たとき「優れた記述で置き換える」のと「削除する」どちらがWikipediaにとって望ましい行為と考えますか?「61.199.138.45」=114.183.93.225 2010年7月10日 (土) 18:20 (UTC)
Muyoさん御回答ありがとうございました。「ケースバイケース」もちろん、無意味な記述とか貧弱な記述の項目を、何が何でも他の者がフォローして育ててやるべきとは思いません。しかし、「優れた記述で置き換える」という選択肢があるのならば、「1.優れた記述で置き換える事が可能か?Yes:書き換える/No:次へ・・・2.削除」という流れに誘導すべきで、「削除する」を上位に持ってきてしまったら、「1.削除する・・・一件落着」で、優れた記述で置き換える事を考えようともしない者が増殖する元になっているのではないか?と思うのです。中には他人の書いた記述の意味を理解するだけの教養や知見に欠けている者が「聞いた事が無い、無意味だ」とばかりに削除に掛かる例もあるように思います。「独断で安易に方針文書を変えてはいけません」は理解しますが、そもそも「方針文書そのものが安易に決まっていませんか?」という私の疑問は理解いただけるでしょうか?「61.199.138.45」=121.117.197.23 2010年7月12日 (月) 00:16 (UTC) スタンスを明確にしましょう「無意味な記述」かどうかをしきりに論じようとする、この記事のスタンスが理解できません。 無意味かどうかは価値判断の結果にすぎないのであって、それを決めつけることはレッテル張りの材料を与えるものでしかありません。 それよりも重要なのは、無意味な記述とされるものに対してウィキペディアが採用しているプロセスを理解してもらうことです。 そもそもこの記事の実用的な価値は、さまざまな無意味な記述を意味のある記述にしたり、適切に削除したりするためのリダイレクトではないかと思います。 そこで提案です。 無意味な記述の定義を読者に委ねてしまいましょう。
定義を放棄することで、無意味な記述という概念の危うさと、他の方針に着地させる必要性を提示する構造になり、また、他の指針との一貫性も保たれます。 リダイレクトとしての機能は、これらの指針及び目的に合致するでしょう。--Neo chemistry(会話) 2013年10月27日 (日) 08:00 (UTC)
蕨餅さん、ありがとうございます。すいません。言葉が足りませんでした。 そもそも、無意味な記述という主観的な概念について「はっきりと」言及することは、「ウィキペディアンが信頼するべき主観」という存在しないものの青写真にすぎないのです。 言葉を濁す結果に終わるのは、何も書かないのでは分かりにくいので、無意味ということについての典型的な主観について例示したからにすぎません。 ウィキペディアにおいては、もっともっと重要なことがあります。 どういう価値観があり、それがどれほど公に認められているのか、という客観的な議論が求められるのです。 主観に頼らない冷徹な手続きを定めることによって、百科事典としての筆致を保つことができるのではないでしょうか。--Neo chemistry(会話) 2015年1月26日 (月) 04:04 (UTC) "酔って書いたりするとこうなりがちです"の除去近日中に除去するつもりです。--蕨餅(会話) 2014年5月7日 (水) 15:55 (UTC) |
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