L-29 (航空機)アエロ L-29 デルフィーン
L-29 デルフィーン(チェコ語: L-29 Delfín )は、チェコスロバキアで開発されたジェット練習機である。初飛行は1959年4月5日。ワルシャワ条約機構加盟国共通練習機として採用され、大量に製造・運用された。NATOコードネームはマヤ。 概要1961年、ワルシャワ条約機構加盟国の間で共用するための練習機として、ポーランドのTS-11 イスクラと旧ソ連製のYak-30を抑えて採用され、1963年4月から引き渡された。ソ連・東欧諸国のほか、アフリカやアジアの共産圏ないしソ連の衛星国でも使用され、3,600機以上が生産された。 現在でも、とくにアフリカ諸国では運用、保管されつづけているが、一方で欧米に展示飛行用として輸出された機体も少なくないという。 構造座席は縦列複座(タンデム)、風防は前席が右横開きで後席は後方にスライドする。後席は前席よりもやや高く配置されている。操縦装置は3舵とも人力方式。フラップ、エアブレーキ、脚の上げ下げは油圧式。主翼は2段テーパーで、内側にフラップを装備している。、胴体は円形セミモノコック構造で、中央部に2個の燃料タンクがある。エンジンの交換は、8点止めの胴体後部を13分で分離した後に、1時間半で行うことができる。タイヤは低圧で、芝生や砂地での離着陸にも耐えられる。射撃訓練用のガンカメラを常備しており、主翼下にハードポイントが2ヶ所あり、増槽、爆弾、機銃ポッドなどが搭載できる。 実戦運用L-29は純粋な練習機であり、のちの時代に主流となるような本格的な軽攻撃機兼用機ではない。作戦機として利用するにはエンジン出力が低いという欠点を持ち、また兵器搭載量も少なかったが、それでもいくつかの戦闘では実戦に供されている。 1967年に勃発したナイジェリアのビアフラ戦争では、反乱を起こしたビアフラ側にはフランスやイスラエルなどが、ナイジェリア政府にはイギリスとソビエト連邦・共産圏がそれぞれ与した。ナイジェリア政府の要請で12機のL-29がアエロフロートのAn-12輸送機やポーランド所属の商船、さらに、チェコスロバキア本国からのフェリーで送られ、MiG-17戦闘機とともに政府軍の空軍によって運用された。運用に際しては、後席にナイジェリア空軍兵士が航法士兼観測手として搭乗し、前席の操縦席に就くのはローデシア(現ジンバブエ)および南アフリカといった旧イギリス植民地出身の傭兵であった(南アフリカ共和国の政府はビアフラを支持)。ナイジェリア空軍は20機のL-29とMiG-17を運用していたが、対空砲火や熱帯の気候、搭乗員の未熟さによる事故によって消耗し、12機あったL-29は4機のみになっていた。それでも、戦争末期にはロケット弾で武装したL-29が、ビアフラ側の再補給を妨害するために運用されている。 このほか、1973年の第四次中東戦争では、エジプト所属のL-29が主力攻撃機の補佐のために近接航空支援を実施している。このときは、練習機ゆえに機影が小さく撃墜されることが少なかったほか、投下精度も高いと評価されている。 性能諸元出典: 『週刊ワールド・エアクラフト』通巻13号 デアゴスティーニ・ジャパン 2000年 諸元
性能
武装
派生型
運用国
参考文献『週刊ワールド・エアクラフト』通巻13号 デアゴスティーニ・ジャパン 2000年 関連項目
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