ステージ上での排泄、ガラスやビール瓶で自分を切り刻む自傷行為、観客に向かって罵りと糞便と暴力を撒き散らすという、過激なパフォーマンスが有名で、「HATED IN THE NATION(国中の嫌われ者)」という逆手に取ったアルバム名が示すとおり、現在でも「下劣なミュージシャン」の代表格として語られる。その一方で彼の作り出したパンク・ロックは非常に攻撃的でソリッドであるとして音楽性を高く評価されており、「アリンこそが真のパンクロッカー」とするファンも多い。また後述するように、多数の才能あるミュージシャンが彼のサポートをしていたのも大きな特色である。音楽性は幅広く、ニューヨーク・ドールズを敬愛し、残された大量のレコーディング・マテリアルの中には、パンク・ロックに留まらず、カントリー・ミュージックやローリング・ストーンズ影響下(ニューヨーク・ドールズもストーンズの影響を受けている)のロックも含まれている。
来歴
少年時代
ニューハンプシャー州ランカスターの Weeks' Memorial Hospital で、出生名ジーザス・クライスト・アリン (Jesus Christ Allin) として誕生した[2]。彼がこのような名前を与えられた理由は、当時32歳だった彼の父親、Merle Allin, Sr.(宗教的で反社会的な人物だった)の下に天使が訪れて、新しく生まれた彼の息子が将来救世主のような偉大な人物になることを告げたからだという。'GG' というニックネームは、彼が子供の頃、彼の兄であるMerle Allin, Jr. が Jesus という単語を正確に発音できなくて、いつも 'Jeje' と呼んでいたことから来ている。一家は水も電気もないログキャビンで暮らしていた。アリンの父親は暗くなってからの会話を一切禁じていたが、情緒不安定で肉体的虐待が行われることもあったという。ただし、GG 自身はこのことを自分の奇行の理由だと考えていなかったらしい。
アリンが学校に通い始めてからすぐ、彼の母親は彼の正式な名前をケビン・マイケル・アリン (Kevin Michael Allin) に変更した(1962年3月2日、彼の出生証明書による)。母Arleta は彼の生名をこの時点まで受け入れていた。しかし、夫の精神状態が悪化したことにより、彼女はアリンが普通の、嘲りの対象にならない少年時代を過ごせるようにするため、彼の名前を変えた。
レコーディングを始めたばかりの頃は、彼がドラムを演奏する事もあった。高校の頃から彼は過激な演出を好んでいた。初期のギグの内、あるギグ(高校のダンス・パーティー)では室内のデコレーションをめちゃめちゃにして、喝采を受けた。また、あるギグでは暴動さえ起こった。1977年には Malpractice というバンドで、彼は2つの曲を作った。また、1981年には Stripsearch というバンドのシングルGalileo / Jesus Over New York でドラムをプレイしている。
彼が初めてフロントマンを務めたのは The Jabbers (1977-1984) だった。The Jabbers はアリンがドラム、ボーカルをやっている曲をいくつも録音している。この頃、アリンはデビューアルバムAlways Was, Is, And Always Shall Be(1980年)を発表する。
この間、アリンは Bulge(ボストンの3ピース・ハードコア・バンドで、アルバムFreaks, Faggots, Drunks and Junkies では Psycho の名前でクレジットされている)、The Aids Brigade(7インチEP Expose Yourself To Kids で有名)、The Holymen (You Give Love A Bad Name) とのコラボレートをしている。また、アリンはスポークン・ワードを始める。この様子を記録したビデオも、入手困難なものの存在する。この時期にアリンは、New Rose Records よりリリースされたアルバムMurder Junkies を ANTiSEEN と共にレコーディングする。このアルバムには10曲の暴力的なパンク・ナンバーと10個の狂暴なスポークン・ワードのトラックが収録されている。Freaks, Faggots, Drunks and Junkies を除いて、アリンはこのアルバムが、自分のペルソナと人生哲学を表しながら、最もきちんとレコーディングされたアルバムだと考えていた。Awareness Records よりリリースされたアルバムWar In My Head - I'm Your Enemy が Shrinkwrap よりリリースされたのもこの時期である。このアルバムは独特で、スポークン・ワードのコラージュに Shrinkwrap が演奏をのせた、45分に及ぶワン・トラックのみで構成されている。
1980年代の後期から1990年代初め頃には、アリンの服役は長期に及ぶようになっていた。特に長かったのは、1989年12月22日から1991年3月26日までのものだった。獄中で彼は、自分自身と、彼の言うところの「使命」への力を取り戻し、GG Allin Manifesto (1990) に取り掛かる。その間に、アリンの悪名はますます広まっていき、Geraldo、The Jerry Springer Show、The Jane Whitney Show への出演を果たす。
テキサス州でパフォーマンス後に、アリンが逮捕された事により、1992年のツアーは延期になる。アリンはニューヨークへ行き、ドキュメンタリー映画Hated: GG Allin And The Murder Junkies を撮影し、コンサートに戻る一年前に、執行猶予から逃げていたため、刑期の残りを過ごすべくミシガン州に送還される。刑期を終えた後、彼はインタビューでもうステージ上で自殺をするつもりがないことを話している。その理由として、彼は刑務所の中にいる間に、自分が生きている事がロックンロールにとって良いことであり、また彼の敵や批評家にとって、脅威であり続けられる事に気付いたからだと言う。そういった批判者達は、どの道彼に死んでもらいたがっていた。
この時期のアリンの音楽性は最も激しいものだと考えられている。最も有名なバックグループ The Murder Junkies と共に、彼はキャリアの中で、最も野心的でプロフェッショナルな作品をリリースしている。1991年から1993年まで多くのツアーの様子が、録音され購入できるようになっている。この時期には、アリンはまた、ハンク・ウィリアムズ・ジュニアに捧げられた、唯一のカントリーアルバムをリリースしている。
死
1993年6月28日、ケヴィン・GG・アリンはヘロインのオーバードースによって不慮の死を遂げた。場所はマンハッタン29番街Bにある、ニューヨークの友人の家だった。当時彼は36歳だった。彼の最後のライブは、死の直前に行われた。ニューヨークにある The Gas Station と呼ばれる小さなライブハウスで、HatedのDVD版にその様子が収録されている。そのショウでは、アリンは数曲をやった後、ライブハウスをめちゃくちゃにして、血と糞尿を被り、囲んでくるファンを抱きかかえながら、ニューヨークのストリートを丸裸で歩いていた。あるケーブルテレビ局が企画したFreakiest Concert Moments(もっとも奇怪なコンサートランキング)で、アリンの最後のライブが4位にランクインしたこともある。
葬式では、彼のむくんで色の失せた死体には、黒のレザージャケットと、トレードマークだったジョックストラップが着せられた。柩の中には、自作のアコースティック・カントリー・バラード When I Die のなかで歌っていた通り、 ジム・ビーム のボトルが彼の隣に入れられた。彼の兄は、葬儀屋が、強烈な糞尿の臭いがする死体を洗ったり、化粧をしたりしないように要求した。葬式は大騒ぎになった。友人達は死体と一緒にポーズをとり、ドラッグやウィスキーを口の中に入れ、ペニスの写真を撮る為に、ジョックストラップを引き摺り下ろしたりもした。葬式が終わる時、彼の兄はヘッドフォンをアリンの耳に付けた。ヘッドフォンは、The Suicide Sessions が入ったポータブル・カセットプレイヤーに繋げられた。葬式のビデオは広く流通していて、Hated の DVD と、ブートレグVHS のいくつかに収録されている。