鵜殿松平家鵜殿松平家(うどのまつだいらけ)は、三河国発祥の松平氏の庶流。十八松平の一つとされるが不明な点が多く、その出自・存在事実は詳らかではない。 松平氏宗家の第6代・松平信忠の子にして清康の弟にあたる松平康孝(十郎三郎)を鵜殿松平であるとする説が代表的[1]であるが、別に五井松平家の第4代松平忠次(弥九郎・外記)の弟・信次の子孫が鵜殿氏を称したとする説がある。 概要松平康孝天文12年正月(1543年2月)に三木松平家の松平信孝(蔵人佐)が岡崎松平家の画策によって追放処分を受けたが、その理由として岩津松平家遺領の押領にならび、信孝の弟でもある松平康孝の遺領を押領したことが挙げられている。このことから康孝に継嗣が無く、康孝の跡式を兄・信孝が併合したと推測されている。しかし、この康孝の遺領は三木の地であったとされ、兄・信孝の三木領所有はこの併合の時からとされている。しかし、康孝は信孝以前に三木郷の領主ではあったが、彼の居城は同国浅井村(現・西尾市)にあったとされ、鵜殿を称する根拠は特に史料的に示された形跡が無いため、鵜殿松平家の存在には疑問があるとされる。追放策により三木郷(当時・額田郡、現・岡崎市域)は宗家に没収され、天文17年4月(1548年5月)明大寺合戦(耳取縄手合戦)に前三木領主・信孝が戦死したため三木松平家も断絶し、信孝戦死以後、子の忠重が徳川家康に再属して旗本になったが孫の忠清の時に無嗣のため再び断絶となっている。康孝系の鵜殿松平家に関しては詳細が不明になっている。康孝の子に松平康定(八郎三郎)があったという説もあるが、この康定も所伝が明瞭ではない。なお、同時代に深溝松平家第二代当主松平好景の弟に松平康定(勘解由左衛門)があり、弘治2年(1556年)[2]若しくは永禄4年(1561年)[3][4]の吉良義昭との戦いで好景以下、兄弟5人・親族20余名が戦死したと云う。しかし、この康定はこの時に戦死を免れたらしく、後年に深溝の松平家忠の日記に松平勘解由左衛門の名で頻出している[5]。 松平信次ところが上記と別に、五井松平家四代目の松平忠次(外記)の弟・信次(長左衛門)の子孫が外戚である鵜殿氏を称したとする説が存在する。信次は反宗家の松平信孝と宗家広忠側の戦いとなった、天文16年9月28日(1547年11月10日)の渡理河原合戦に宗家側として兄の忠次が戦死したので、忠次の遺児・景忠を後見したと云う。この子孫が鵜殿氏を称して五井家の家臣になったとする。また五井松平家五代目の景忠は弟・正幸(新兵衛)にも五井家の家臣として鵜殿氏を名乗らせている[6][7]。 鵜殿氏との関係なお、五井松平家の第2代・松平元心の次男・忠定は深溝松平家初代となったが、五井家も深溝家もその根拠地はともに現在の蒲郡市域およびその近隣の地に所在しており、三河国宝飯郡西郡(にしごおり、蒲郡市に含まれる旧地名)一帯の国人領主にして、今川氏の家臣でもあった鵜殿氏(上郷・下郷・柏原等)支配地の近隣でもあった[8]。 その鵜殿氏と松平氏には姻戚関係等の関連性が認められる(下記の略系図2 を参照のこと)。すなわち、深溝松平忠定の孫・伊忠は上郷(神郷)城主・鵜殿長持の次女を室に迎えた。また、下郷鵜殿氏(蒲形城主)の鵜殿長存の孫(または曾孫)にあたる鵜殿康孝(長信)は八郎三郎と称し、深溝の伊忠の次女を室に迎えている[9][10]。 参考系図
凡例 1) 実線は実子、点線は養子。横破線は婚姻関係。 略系図 1
略系図 2
脚注
参考文献
関連項目 |