魔法の弾丸魔法の弾丸(まほうのだんがん、ドイツ語: Freikugel、Zauberkugel、英語: magic bullet)、魔弾(まだん)は、発射すれば必ず狙った標的に当たる弾丸、すなわち「百発百中」の弾丸のこと。もともとドイツの伝説に見られるモチーフであったとされるが、カール・マリア・フォン・ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』(1821年初演)を通して広く知られるようになり、20世紀に様々な分野で比喩表現として用いられるようになった。 オペラ『魔弾の射手』→「魔弾の射手」も参照
このオペラに先んじてドイツで公刊されていた魔弾[1]の説話としては、オットー・フォン・グラーベン・ツム・シュタインが1730年に公刊したものもあったが、直接にオペラの下敷きとされたのは、1811年にヨハン・アウグスト・アーペルとフリードリヒ・ラウン[2][注 1]が幽霊譚のひとつとして公刊したものであった。 ウェーバーの委嘱によりヨハン・フリードリヒ・キントが台本を作成し、そこからウェーバーの意向で冒頭の一幕が削除されて、作曲が行なわれた[3]。 ただし、このオペラにおける魔弾は、7発のうち6発が射手の意図通りに当たるが、1発は悪魔の意図したところに当たる、と設定されている。 エールリヒの「特効薬」その後、射手の思い通りに、意図した標的に当たる弾丸という意味から、ドイツの細菌学者パウル・エールリヒが、副作用なしに病原体のみに薬効が及ぶ特効薬、といった意味合いで、20世紀初頭から魔法の弾丸(ドイツ語: Zauberkugel)を用い、化学療法の概念として医学、薬学などの分野でこの意味が広く定着していった[4]。例えば、抗生物質は、魔法の弾丸のコンセプトを実現した例と見ることができる[5]。 この意味での英語の表現としての魔法の弾丸(英語: magic bullet)は、1930年代にサルファ剤の開発が進み、第二次世界大戦などの戦場で負傷者の救命に活用されたことを契機として普及が進んだ[6]。1940年には、エールリヒの実話を基にした伝記的映画が米国で制作され、一定の成功を収めてアカデミー賞にもノミネートされたが、その原題は『Dr. Ehrlich's Magic Bullet』(「エールリヒ博士の魔法の弾丸/特効薬」の意)であった(邦題は『偉人エーリッヒ博士』)。 コミュニケーション・モデルの「弾丸理論」→「皮下注射モデル」も参照
おもに20世紀半ば以降のアメリカ合衆国におけるコミュニケーションをめぐる議論においては、情報の発信者/送り手が意図した通りにメッセージが受け手に伝わると想定し、メディアが発する情報の個人への影響は大きいと考える、いわゆる「強力効果論」の主張を、それを批判する「限定効果論」の立場から、「魔法の弾丸」理論(ないし、単に「弾丸理論」)と呼ぶようになった[7][8]。この文脈では、「魔法の弾丸」(「弾丸理論」)は「皮下注射モデル」とほぼ同義である。 ケネディ大統領暗殺事件の「魔法の銃弾」→「証拠物件399」も参照 1963年のケネディ大統領暗殺事件の検証に当たったウォーレン委員会(リー・ハーヴェイ・オズワルド単独犯行説をとった)は、実際に大統領たちに浴びせられた銃弾が何発であったのかが議論される中、オズワルドが発射した3発のうち、証拠物件399として押収された弾丸が、ジョン・F・ケネディと同乗していたジョン・コナリー知事に合わせて7か所の傷を負わせたという判断を示した。このため、この銃弾は魔法の銃弾(英語: Magic Bullet)と通称されることになった[9]。 受粉の「魔法の銃弾」植物の受粉において、同じ種の別の花まで確実に花粉を運んでくれる生物を「魔法の弾丸」と表現する。例えば、マダガスカル島のランに対する、マダガスカル島のガが「魔法の弾丸」である。[10] 都合よく存在してくれないものまた、現実にはそのように都合の良いものは存在しない、という意味で「魔法の弾丸」を用いることもある[11]。これもエールリヒが理想の薬は「魔法の弾丸」であると述べたことを踏まえている[12]。また、同様の意味で「銀の弾丸」という表現も用いられる(「銀の弾などない」を参照)。 「魔弾」が登場する創作作品の例
脚注注釈
出典
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