高浜七年祭高浜七年祭(たかはましちねんまつり)とは福井県高浜町にある佐伎治(さきち)神社の式年大祭であり、福井県の指定無形民族文化財の一つである[1][2]。次回は2025年6月15日(日)~21日(土)に開催予定である。 概要高浜七年祭は巳年と亥年の6月、卯の日から酉の日の7日間に、旧高浜地区全域を氏子として行われる佐伎治神社の式年大祭であり、別名「七年祭」と呼ばれる。祭りの期間中は中ノ山・西山・東山の三基の神輿が氏子約300人によって高浜町内を中心に曳行する[3]。神輿それぞれに太鼓打ちと芸能衆が行列をなして付き従い、神輿の出発前や到着後に太刀振り、お田植、神楽などの芸能を披露する。一方、7種類ある曳山では「屋台囃子」と、子供による「日本舞踊」や「太鼓の演奏」が演じられる[2]。祭り最終日には氏子が神輿を担いだまま海に入る「足洗いの儀」を行う。この儀式により怨霊や疫神が海に帰っていくとされている[4]。 歴史高浜七年祭は京都市の祇園祭と同様、御霊会の一つである。都市が発展するにつれ流行病の蔓延が問題となる。この原因を御霊(無実の罪で亡くなった人々の怨念)や外国からの疫神のしわざと考え、それらを慰撫し、楽しんでいる間に立ち去ってもらうのが御霊会である。七年祭も疫病が発生しやすい梅雨から夏にかけて行われる[5]。 祭りの起源は逸見昌経による高浜城の築城後であると考えられている。七年祭らしき記述の文献が登場したのは安土桃山時代の里村紹巴の紀行文『紹巴道の記』(天橋立紀行)の1569年(永禄12年)6月19日の条「高浜祇園会桟敷なとうたれければ一見して明る夜ふかく立出ぬ」で、「高浜祇園会」というのが現在でいう高浜七年祭であることから、この頃から祭りが行われていたとされる[2][6]。 祭りは陽の極まる旧暦6月卯の日から酉の日まで7日間行われるが、『七年大祭記録』では明治38年までは9日間祭りが行われていたことが記されている。明治44年以降、初日の神輿卸しと2日目の御旅始めを1日で行い、練返しも行わなくなり7日間となった[5]。また近年は海水浴シーズンを避け、新暦の6月に行われている。最終日の本日(ほんび)は酉の日があてられ、『七年大祭記録』では「辛酉(かのととり)」をあえて本日にあてている年が見られる[5]。「辛酉」は陽から陰への変わり目で、古来革命がおこるとされ、改元や改令が行われることが多かった[5]。また祭りのある巳年は陽の極まる年、亥年は陰の極まる年である。このように七年祭は、年・月・日に陰陽五行をあてはめることで、少しでも疫病発生を抑えたい人々の願いが込められている[5]。 七年祭執行までの流れ
七年祭の流れ
![]() 神輿と山元氏子地区は3つに分かれ、東山・中ノ山・西山の神輿の駕輿丁(神輿担ぎ)、神輿の警固にあたる[9]。3地区は区内に御旅所を設け、御旅所となる家を山元という[9]。 東山
中ノ山
西山
祭り中に行われる芸能曳山芸能氏子たちによる「屋台囃子」と子供たちによる「日本舞踊」、「歌謡舞踊」、「太鼓の演奏」が行われる。特に2日目は「山上がり」と呼ばれ、すべての曳山が佐伎治神社に集結する[11]。 太刀振太刀振は7種類存在し、各地区ごとに演じる。それぞれの太刀振ごと異なった演目を行うため、それぞれの太刀振に大きな特徴がある[11]。 神楽立石区、畑区、中寄区の若連中により演じられる。演目は「弊の舞」「剣の舞」「本神楽」「荒獅子」の4演目がある[11]。 お田植事代区の若連中により演じられる。お田植はまず、8人前後の鍬と柄振りを持った青年が、円陣を組んで唄いながら舞う「ごよがの」から始まる。お田植の最後は神主と子供数人からなる早乙女との掛け合いで終わる[11]。
脚注出典
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