高川定次郎高川 定次郎(たかがわ ていじろう、1856年9月16日(安政3年8月18日[1])- 1921年(大正10年)11月25日[2][3])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県会議長、兵庫県赤穂郡坂越村長。 経歴播磨国赤穂郡坂越村[1](兵庫県[3]赤穂郡坂越村[2][4]、坂越町を経て現赤穂市[2]坂越)で、油製造業、廻船業、塩業・高川定十郎の息子として生まれた[5]。室井源仙に師事し、漢学、習字、算数を修めた[1]。その後、赤穂郡北野中村の鍋島智成から漢籍を学んだ[1]。 1877年(明治10年)坂越村小学校教員となり数年間在任[1][2][3][4]。1883年(明治16年)3月、赤穂郡全町村連合会議員に就任[1]。1885年(明治18年)12月、兵庫県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長も務めた[1][2][3][4][5]。1894年(明治27年)4月、坂越村長に就任[1][2][3][4]。その他、赤穂郡徴兵参事員、所得税調査委員、帝国教育会評議員なども務めた[1][2][3][4][5]。 産業界では、赤穂郡農産調査委員、同勧業会議員、西播五郡勧業会議員、播磨沿海八郡漁業会議長、大日本水産会兵庫県支部副会頭、兵庫県農工銀行設立委員などを務め[1][4][5]、1894年10月、坂越銀行頭取に就任した[1][2][3][4][5]。その他、神戸貿易監査役、相生銀行取締役、播磨耐火煉瓦取締役なども務めた[1]。 1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(兵庫県第8区、立憲改進党)で落選[6]。1898年(明治31年)8月、第6回総選挙(兵庫県第8区、憲政本党)で当選し[1][7]、衆議院議員に1期在任した[3][4]。 脚注参考文献
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