駒林広運駒林 広運(こまばやし ひろゆき[1]/こううん[2]、1856年12月23日(安政3年11月26日[2][3]) - 1935年(昭和10年)11月23日[1][2])は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員(5期)。 経歴庄内藩士駒林広明の長子として出羽国田川郡鶴岡大海町(西田川郡鶴岡町を経て現鶴岡市)に生まれ[2]、1875年(明治8年)8月、戸主となる[3]。和漢学を修めたのち1879年(明治12年)3月、三等准訓導となったのち山形県会書記に転じた[2]。1883年(明治16年)には同県会議員に当選し、1886年(明治19年)条約改正に反対を掲げ上京する[2]。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選[2]。以後、1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙まで通算5回当選した[2]。 その間、1899年(明治32年)には県会議長に推され加茂港改修などに尽力[2]。衆議院議員時代には大同倶楽部を結成し、東北各県の連帯を強め、のち自由党から立憲政友会に移った[2]。後年は実業界に入り、東京鉱業、明治公債[2]、奥羽土功[1]各取締役などを歴任した。1920年(大正9年)より東京荘内館評議員を務めた[2]。東京で死去[2]。墓所は品川妙光寺、鶴岡太春院[2]。 脚注参考文献
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