飛鳥井雅賢
飛鳥井 雅賢(あすかい まさかた)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公家。権大納言・飛鳥井雅庸の長男。官位は従四位下・左近衛少将。 経歴慶長14年(1609年)、後陽成天皇の女官と密通した罪(遊蕩の罪)により、隠岐国中之島[1]へと配流された(猪熊事件)。慶長18年(1614年)4月には、中之島において雅賢の生活を支えた村上家の当主・村上秀親に蹴鞠の免許状を発給している。隠岐島の伝説によれば、雅賢には藤若という孫がおり、延宝8年(1680年)に徳川家綱の死去による恩赦で赦免されたとされる。また源福寺には雅賢の邸と伝承される「飛鳥井屋敷」の跡地があったとされる[2]。寛永3年閏4月16日(1626年6月10日)には配所で没した。弟・難波宗勝も同事件に関わっており、伊豆に配流となった。なお、慶長17年(1613年)に宗勝は赦され、飛鳥井家を相続し、雅胤と名乗った。 脚注出典
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