風葬

風葬(ふうそう)は、死体埋葬せず外気中に晒して自然に還す葬制曝葬(ばくそう)、空葬(くうそう)ともいう。

概要

遺体の腐敗が早い低緯度地方で世界的に多く見られ、日本では日本列島の古代以前、南西諸島奄美群島琉球諸島)では近世まで一般的な葬制であった[1]

葬法は時代や地域によりまちまちで、人里離れた特定の場所に放置したり、に収めた状態で安置したりされることが多い。 洞窟や樹上で行われることもあり、それぞれ洞窟葬樹上葬と呼ばれる。山上や崖などに放置し、屍肉を野生動物に食べさせるものは鳥葬獣葬などと呼ばれる。また海岸付近に置きオカヤドカリなどに屍肉を食べさせる例もある。その後、 風化し白骨化した遺体(骨)を回収し改葬するという複葬の形式を取る場合もある。

インドネシアの風葬

洞窟墓の一例。「タウタウ」(tau tau)人形の姿が見える。

スラウェシ島高地部に住むトラジャ族の葬送は大規模かつ派手な葬祭で、階級の差が定められており、高位者のみに限られることで知られるが[2]、伝統的な葬送では岩壁に横穴を穿ったリアン(liang)と呼ばれるに葬られる[3]。ただし現代ではキリスト教化が急速に進んでおり[4]、アルック・ト・ドロ(aluk to dolo)と言われる伝統の信仰をそのまま伝える信者が少なくなるにつれ、風葬は廃れていくのではないかと見られる。葬祭そのものはインドネシア政府による後押し、観光化もあり現在でも盛んである。リアン(liang)墓は岩山の高さ10 - 数十mに及ぶ場所に横穴を穿って作られ、副葬品であるタウタウ(tau tau)人形も遺体と一緒に置かれることが多い。その後は遺体が自然に解体されるのを待つ。

ボルネオ島の一地方に居住するイバン族の大多数は土葬で葬られるが、一部の者に対しては例外的にルンボン(lumbong)葬という台上のに葬られる形のものが用いられる。これは有力な指導者に対するもので、この形式で葬られた者は「死霊」と呼ばれず「神(petara)に成った」とされる[5]。イバン族は普通の葬儀の際、死を別離と見なし、死者との訣別の意を儀式で表すが、ルンボン葬の際には逆の心理が認められる。それは人格(といったもの)を保ち、栄光化して守護を期待するもので、神話によれば最初のルンボン葬は伝説の英雄クリェンが、彼の父の為に行ったことに始まるとされる。台上葬の遺体は場合によっては長期間肉体を留め、また英雄の強靱な肉体にあやかろうと闘鶏に啄ませることもある。

日本の風葬

日本列島本土

日本列島における風葬は、弥生時代古墳時代洞窟遺跡岩陰遺跡で事例があり、長野県上田市鳥羽山洞窟(国の史跡)などが知られる[6]

中世には、遺骸を棺に入れて木の枝にぶら下げる樹上葬や、屋外に設けられた台の上に棺を放置する台上葬が行われたという伝承が少なからず語られている[7]。樹上葬の例として、『八幡愚童訓』には香椎宮の名の起源について、仲哀天皇の棺を椎の木に掛けておいたところ香を発したために「香椎」と称するようになったという伝承がある[7]。また、中山太郎によれば「棺掛」や「人掛」など、樹上葬の伝説を持つ樹木も存在するという[8]。台上葬の例としては『類聚雑例』に次のような伝承がある。比叡山延暦寺の良明阿闍梨が自分の死後、深山に棚を作り棺を置くように遺言した。棺を置いて数日後、弟子が様子を見に行くと遺骸は無くなり衣服だけが残っていたという[7] 平安時代以降、京都では帷子辻 (かたびらがつじ)、化野(あだしの)、鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)が、古来の風葬の地、葬送の地であった。

日本本土では薄葬令(646年)により庶民も定まった墓地に葬むる慣習が定着したため、風葬の習慣は廃れた。近代以降の日本では土葬さらには火葬が殆どとなり、現在は天皇皇族の一部にみられる棺を地中に埋めず内の石室に安置する葬法()が唯一の例外となっている。

琉球の風葬

概要

現代の奄美群島琉球諸島の地域における主な葬制は土葬または火葬となっているが、伊波普猷の報告[9]にあるとおり、明治時代までは共同墓における風葬が行われていた[10]。風葬は明治時代に行政から禁止されたが[11]久高島では屋外での風葬が1960年代まで行われており[10][12]宮古島で1970年代まで洞穴葬が行われていた記録が残っている[13]洗骨を経ての改葬を前提とする墓地石室内での風葬は1960年代までは沖縄全域で主流として残り、現在も離島など一部の地域で継続されているとされる。

古琉球では、風葬において遺体はまず崖(パンタ)や洞窟(ガマ)に置かれて自然の腐敗を待ち、3年後・5年後・7年後など適当な時期を見て洗骨して納骨する。琉球弧においてパンタ)や洞窟ガマ)は古来、現世後生グソーの境界の世界とされ、聖域であると同時に忌むものとされてきた。祖霊を崇める一方で、「」はあくまで「穢れ」と捉えられていた。後述の亀甲墓等の建て墓は主に琉球王国時代以降のものである。

実態

風葬には大きく分けて二通りの方法があった。一つは特定の洞窟や山林(「後生グソー」と呼ばれる不浄の聖域)に遺体を安置してそのまま共同の墓所とする原始的な方法と、亀甲墓や破風墓の中に棺を一定期間安置し、風化して白骨化した後に親族が洗骨を行い、改めて厨子甕に納める方法である。琉球王朝時代は王族士族以外の者が墓を持つことは原則として禁じられていたため、大多数の庶民は前者の方式で弔われていたが、明治以降は士族に倣った亀甲墓が一般にも広がり、後者の葬制が主流となった。

(沖縄本島南部から見て東の)太陽が昇る方向にあることから「神の島」とも呼ばれる久高島では、1960年代まで前者の風葬が残っていた。風葬の行われる場所を「ティラバンタ(葬所)」といい、「ティラ」は「ティダ」と同義で太陽の事、「バンタ」は断崖絶壁という意味である。

第二次世界大戦前の久高島の風葬墓

死生観を示すものとして葬儀の時に歌われた、葬送歌の一部を取り挙げる。

「トゥシアマイ、ナイビタン (年が余りました)/ティラバンタ、ウシュキティ (ティラバンタに来ました)/シッチ、ハタバルヤ (干潟は)/ナミヌシュル、タチュル (波が立つ)/ナミヤ、ハタバルヤ (波の干潟は)/ヒブイ、タチュサ (煙が立つ)/ニルヤリーチュ、ウシュキティ (ニルヤリーチュに来て)/ハナヤリーチュ、ウシュキティ (ハナヤリーチュに来て)」

このうち「年が余りました」は「寿命になった」、ニルヤリーチュ・ハナヤリーチュは対句でニルヤハナヤ、すなわちニライカナイのことである。

「干潟は/波が立つ/波の干潟は/煙が立つ」の箇所は、葬儀と関連する意味が掴めず難解だが、遺体が腐乱して溶けていく様をユタユタと立つ干潟の小波に喩え、「煙が立つ」のは溶解した肉体が煙(ヒブイ)となって飛んでいく[14]描写だという[15]。沖縄周辺の信仰では、マブイ(魂)は煙のようなものと考えられていて、風葬は魂を海の彼方のニライカナイに還すものという観念がうかがえる。

この他、奄美群島ではいったん土葬し、後年に掘り返して遺骨を洗骨し改葬する風習が近代まで残っていた。

京都帝国大学による風葬骨持ち去り問題

沖縄本島北部の今帰仁村に、琉球王国を統一した尚氏一族が眠ると伝えられる百按司(むむじゃな)墓と呼ばれる風葬墓群がある。昭和初期(1928~1929年)、京都帝国大学助教授人類学研究のため、警察の協力を得て風葬骨を持ち去った。現在は京都大学総合博物館に保管されているが、京都大学は『先住民族の権利に関する国際連合宣言』で琉球人が対象となっていないことなどを理由に、遺骨の返還を拒否している[16]

宮古島における風葬

宮古島地方では、沖縄本島から伝わる以前から巨石墓(ミャーカ)というのがあり、風葬の代表的な例とされている。屋根のない石囲いの中に遺体を葬るものであったが、後世、風葬を嫌う考えが起こって屋根をかぶせるようになったという。仲宗根豊見親の墓のように、本島の横穴墓形式との折衷も見られる。島尻狩俣大神島にも風葬があり、昭和時代には洞窟などから遺骨が多数発見されたことがある[17]。また、島尻集落のほぼ中央部には巨大な崖下墓があり、以前から「長墓(ながぱか)」として知られている。研究報告によると、長墓は3つの廓に分かれ、60 - 70体分の遺骨が乱雑に置かれていた。廓の前にはグスク様に囲いがあり、遺骨を以前収めていたと思われる容器も発見された。岩陰の内外で見つかった土器・陶磁器、キセルからこの墓域の年代は17世紀から18世紀頃と推定される[18]

脚注

  1. ^ 堀一郎『民間信仰』(岩波全書、 1951年) 222頁
  2. ^ 内堀基光・山下晋司『死の人類学』
  3. ^ 内堀基光・山下晋司『死の人類学』208頁
  4. ^ 内堀基光・山下晋司『死の人類学』194頁
  5. ^ 内堀基光・山下晋司『死の人類学』157 - 163頁。ただ、この「神霊化」は若死になどの、不慮の死者に対しても用いられる。
  6. ^ 関 & 永峯 2000.
  7. ^ a b c 岸田緑渓『親鸞と葬送民俗』(星雲社、 2013年) ISBN 9784434182921 pp.48-53.
  8. ^ 『本朝変態葬礼史』:新字新仮名 - 青空文庫
  9. ^ 伊波普猷「をなり神の島」「南島古代の葬制」より。「をなり神の島」は『伊波普猷全集 第5巻』1974年に所収されている。
  10. ^ a b 『葬と供養』1992年「1 葬法論 - 凶癘魂と鎮魂 3 自然葬法と鎮魂 7 久高島の風葬」より。
  11. ^ 鹿児島県庁が発した沖永良部島への諭達など。『沖永良部諸改正令達摘要録』には「爾来地葬すべきは当然に候処或る所は其棺を墓所に送り、モヤと唱ふる小屋内に備置き、親子兄弟等此モヤに到、其棺を開き見る数回、終に数日を経屍の腐敗するも臭気も不厭赴に相聞、右は人情の厚きに似たれども、其臭気を嗅ぐものは甚だ健康を害し候は勿論、近傍通行の者いへども、其臭気に触るれば病を伝染し、或は一種の病気を醸すものに有之、衛生上甚だ不宜事に付、自今右様之弊習は此度相改め云々」と記されている。
  12. ^ 『葬と供養』1992年「1 葬法論 - 凶癘魂と鎮魂 3 自然葬法と鎮魂 7 久高島の風葬」によれば、久高島では昭和41年(1966年)に行われたイザイホー神事の際、ある事件が起こり島民は風葬を廃止することとした。同書によれば、過疎化の進む久高島で、これがもう最後の神事になるかもしれないというので、多くの報道陣を受け入れたが、その中のカメラマンが風葬が行われている後生(グソー)に入って墓を写真にとるばかりか、棺をしばる太い針金を切って死者の写真を撮るという墓荒らしを行った。しかもこの写真は、ある好奇心の強い太陽の好きな前衛画家の見学記に入れて週刊誌に載せられた。慟哭するほどのショックを受けた島民は、告発することも考えたが、犯行責任の所在を問うことが困難なので、おとなしい島民らしく風葬を廃止することとした。久高島では、この後5年ほどで完全に土葬と火葬に転換したのだと言う。著者の五来重は「…(風葬は)自然死のように消えるのがのぞましいのであって、久高島の風葬は非業の死であり、頓死であった。」と述べて、この事件を非難している。
  13. ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年「第9章 死の儀礼と巫俗 - シャーマンと葬墓制 - 第2節 葬墓制と巫俗 3 葬墓制とその推移」より。
  14. ^ 実際にはの事であるが、敢えて比喩的表現とする。
  15. ^ 比嘉康雄『日本人の魂の原郷・沖縄久高島』(集英社新書)41頁
  16. ^ 【風紋】沖縄の風葬骨、京大に返還請求 問われる帝国の残滓日本経済新聞』朝刊2019年12月16日(社会面)2019年12月28日閲覧
  17. ^ それらの遺骨は集められ、島尻集落に一時的に菩薩像が建てられたが、現在菩薩像は移動している。なお、発見された時に関係家族に問い合わせたところ、一軒から先祖のものであるとの回答があった。
  18. ^ マーク・ハドソン種石悠「宮古島市島尻所在長墓の2006年度調査概況」(『筑波大学先史学・考古学研究』18号、2006年)

参考文献

  • 関, 孝一、永峯, 光一 著、鳥羽山洞窟調査団 編『鳥羽山洞窟-古墳時代葬所の素描と研究-』信毎書籍出版センター、2000年10月25日。ISBN 4884110048NCID BA51017820 

外部リンク