韓広韓 広(かん こう、? - 紀元前206年)は、秦末の武将。 武臣配下の武将であり、燕王として自立するが、項羽によって遼東王に遷され、配下であった臧荼と戦い殺された[1][2]。 生涯元は河北にあった上谷郡に住んでおり、秦の卒史(事務官)に任じられていた。 二世元年(紀元前209年)7月、陳勝・呉広の乱が起こる。陳勝たちは陳を制圧すると、陳勝は国号を張楚とし、王を名乗った。陳勝は、趙の地に武臣を将軍に任じて、配下として、邵騒・張耳・陳余を配して軍勢を与え、北上させて趙の地を攻略させた。武臣らは趙の地の攻略に成功する。 同年8月、武臣はさらに進軍して、趙の邯鄲に至る。武臣は、張耳と陳余の進言を聴き入れて、趙王を称する。韓広は、勢力拡大を図る武臣に命じられ、北上して燕の地の攻略に派遣させられる。 同年9月、燕国のかつての貴人や豪傑たちは韓広に言った。「楚はすでに王が立ち、趙もまたすでに王が立ちました。燕は小国といえども、また、万乗(一万乗の戦車)を有する国でした。将軍に自立して燕王となることを願います」。韓広は答える。「私の母は趙にいる。できない」。燕の人々は、「趙はまさに西は秦に対して不安があり、南は楚に対して不安があり、趙の国力では我ら燕の自立は止めることはできません。また、楚(張楚)の強国さをもってしても、趙王(武臣)や将相(邵騒・張耳・陳余)の家族を害することは決してできません。どうして、趙だけが将軍の家族を害することをあえてしましょうか!」と語った。韓広は燕の人々の意見に同意して、自立して燕王となった。 韓広の自立を知った趙王の武臣は張耳・陳余とともに、北上して趙と燕との国境の土地を攻略していきた。武臣がひそかに出てきたところを、燕の軍が捕らえた。(韓広の配下である)燕の将(姓名不詳)は武臣を拘束し、「趙の土地の半分を分けて燕にくれれば、趙王(武臣)は帰そう」と要求した。韓広[3] は趙から送られてきた十数人の使者を殺し、土地を与えることを要求した。趙の兵舎にいた雑役の兵士が燕を訪れ、燕の将に対し、「張耳と陳余の本当の望みは武臣が死に、自分たちが王となることである。そうなったら燕は滅びるであろう」と説得したため、燕の将は武臣を返した[4]。 韓広が自立して数か月して[5]、趙は韓広の母と家族を燕の地に送ってきた。 二世二年(紀元前208年)11月、邯鄲において、武臣が配下の李良に殺される。 同年端月(1月)、武臣亡き後に、張耳・陳余らは趙の旧王族の趙歇を趙王とし、信都を根拠地とする。 二世三年(紀元前207年)10月、将の臧荼を趙の救援に派遣する。 同年12月、臧荼は項羽とともに、秦軍と戦う。項羽は秦軍を大いに破り、鉅鹿を救う。臧荼は、趙や趙を救援に来ていた諸侯とともに、項羽に従うこととなった。 高祖元年(紀元前206年)12月、項羽は臧荼らを従えて、関中に入り、秦を滅ぼす。臧荼は楚に従って趙を救援し、項羽とともに関中に入った功績から、項羽によって燕王に封じられ、薊を都とすることになった。臧荼が燕王に封じられることに伴い、韓広は辺地である遼東王に遷され、都は無終とすることにされてしまう[7]。 同年4月、項羽に封じられた新たに封じられた諸侯が関中から国に帰り、臧荼も帰還する。 同年8月、臧荼は燕に帰ると、韓広を遼東に行かせて、燕から追い出そうとした。韓広は反抗したが、臧荼は韓広を攻撃した。韓広は無終において殺される。燕国だけでなく、遼東も臧荼によって臧荼の領土として併合された。 脚注
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